光と闇の戦い

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 光と闇の戦い

甘いお菓子「光と闇の戦い」
http://firstdoor.jugem.jp/?eid=214
甘いお菓子「光と闇の戦い」続編
http://firstdoor.jugem.jp/?eid=216

今日は過去記事のピックアップです。


 甘いお菓子 「光と闇の戦い」

よくスピリチュアルや霊能関係でインチキを垂れ流す人は、
実は巷のスピ本などの情報に洗脳されている人も多く混じっています。

よく、「あなたはあなた、ありのままでいいのです。」 そしてそれこそが、「あなたらしさなのです。」
といった言葉を聞いたことはありませんか?
他には、「まず自分が幸せになることです。」 といった具合に、
その行為や思想が、さも内側、自分に向けたものこそがもっとも必要なことであるかのように人々に刷り込み、
他者の益となることから遠ざけさせようとする思想等。
そのしようとしている行為が、他者の為であるなら自分の自然な心ではないから、自分のために行い、為せと。(そんな事は断じてないのだが。)
これらはなんだと思います?
実際は精神性や霊性進化に対するブレーキなんですよ。
そしてこれは、人間という種の、魂の現ステージを無視したはるか遠い過去のもの。
これらは人々の利己主義を益々増長させてしまうものです。

この、自分のことを一番とする利己至上主義の根底はなにか?
巷のスピリチュアルやニューエイジの根底として、
善悪というものは本来はないからだと。
しかしそれは本来、悟性を開ききった者が知る観念であって、
私たち人間には、そこに至るまだまだ途上であり、
この地上における、種に沿った道徳も善悪もあるのです。
「まだ私たち人類には善悪は必要なのです。」
この世に多かれ少なかれ、苦痛と不幸があり、幸福でない者が一人でもいる限り。

つい先日ですが、努力はマイナスなどと、自称人生成功コーチがとあるブログで声高に叫んでいました。
もちろんこれは誤りで、せっかくなので小生は当ブログ上でその詳細を述べましたが、
こういった、「まず自分が」とか、「善悪など本当はない」とか、
「あなたは今ある、ありのままでいいのです」といった、
真に理と知と精神性霊性を磨いてきた者なら、
一目でそれが人々の精神性を後退させようとしてるものと判るものを、闇の勢力は世に浸透させたがっている。(闇の勢力については後述します。)
これらの人々は、それらスピリチュアルなりニューエイジと呼ばれるものを読み漁り、
うまい具合にすっかり闇の勢力側に洗脳されてしまっている人たちであり、
中にはそれをおぼろげながら知りつつ、理解していながらも、故意に広めている者もいるようです。
なぜなら、利己的で堕落志向の人ほど、こういった自己を甘やかしてくれる思想に惹かれてしまうのを
巷の自称霊能者や教祖、自称先生たちはよく知っているのです。
そう、甘いお菓子ほど人が集まることを知っているのだ。


これはよく言われていることですが、
よくニューエイジとかスピリチュアルと呼ばれる世界では、
人類の精神的進化を助けようとするグループと、一見、同じように助けようとしながらも、
人間を支配し、堕落させようとするグループが存在していると言われます。
これは光と闇の戦いと呼ばれているものです。

(詳細は控えますが、興味のある方は検索されて調べてみてください。
世界的な秘密結社が絡んでいる事を知るでしょう。)



もし、実はその教えに、道徳に反する部分や利己的なものをあるように感じたなら、
それは闇の勢力の教えなのかもしれません。

ですが、それら闇の勢力の思惑に染まる人たちは、
実際は選別されているにすぎません。
振り落とされる側として。

もし、この世に審判の日が本当に来るとして、
もし仮にですが、これを読まれているあなたが、
審判の日に人類を裁かねばならない神であったとします。
言葉巧みに甘いお菓子で人々に自堕落を勧め、そしてそれこそが精神性や霊性であるかのように勧める者や、
それら自堕落を勧められ、それこそが精神性や霊性なのだと信じてやまず、己が精神性や霊性を後退させてしまった者。
これらをあなたという神は、その時、善しとするでしょうか?






もしも本当に、「あなたはあなた、ありのままでいいのです。」が正しいのなら、
人は、精神性も霊性も向上を求める必要がなくなります。
教えや学びそのものが必要なくなるのです。
幸福を求める必要もなくなり、不幸から抜け出ようと思うことすら間違いになります。
これは、貧乏人は貧乏のままであれとか、犯罪者にこれまでどおりに犯罪者らしくあれと言っているのと同じ事で、
実際は今のままで安住させようとする、人々から向上を奪おうとコントロールしようとしてる言葉なのです。
しかしではなぜそれに気づきにくいのか? それは話の中に、スピリチュアルやニューエイジだのといったものの中の、
善い部分をもたくさん混ぜながら説くという、実に巧妙な広め方をされているからなのです。



よく、宇宙は完璧と言います、何が起きようとも完璧なのだと。
これは確かに真実です。
ですが、それはカルマの法則が作用半作用として還り、調和が取れているという意味で完璧なのであり、
誰かが不幸の原因を作れば、それは果として、結果、不幸は私たちに必然として還るのです。
もし人々が戦争を起こせば完璧どおりに、その行いがカルマとなり、人類に還るという点で。
そう、完璧です、プラスもマイナスも必ず作用半作用となり、必ずバランスが取られるという意味では。
その完璧の法則の中で、自身が選び行うというカルマの中で、
私も、これを読まれているあなたも、選んだカルマの通りに自身に還り、完璧なのです。
たとえそれが、選別をされ、自ら振り落とされる側となってしまっても。

闇の勢力とは、人々の真の精神性や霊性の向上を阻む事が狙いなのですから。



 もし、これを読まれているあなたが、闇の勢力側のおもわくに乗りたいのなら、
そうしたらいい。
なぜなら、人は誰も強制はできない、
もし、こうして引き止めても無駄なのなら、
自分の目で確かめるといい。
自分の身と魂を賭して、振り落とされる側を経験したらいい。






まずお断りとして、これはなんら根拠を具体的に挙げることのできない話なので、
私の空想と思ってもらってもかまわないが、
神が人間を選別し、振り落とさないと思うのは間違いで、
神の望む生き方をしなかった者はこれまで振り落とされてきた。
何千年という長い流浪の転生にも、やがて審判の日はやってくる。
ノアが次世代の祖として生き残った時のように。


もし、光と闇の戦いが本当だとして、
私は闇の勢力を一概に悪とは決め付けてはいない。
闇の勢力は、そそのかしに乗る人間を選別し、
振り落とすのが役割なのかもしれないと考えているからだ。
乗りたいものは乗ればいい。

人間は本来、分別のあるステージにまで登ってきた魂だ。
私たち人類は、役目を担う者たちに、そそのかしを提示され、
みずからの選択を迫られているにすぎない。

2010/5/7 7:40 愛上王




 甘いお菓子 「光と闇の戦い」続編

スピやニューエイジ思想の甘い罠
犯罪の温床が広がる思考の停止と向上心の放棄


 甘いお菓子 「光と闇の戦い」の中で触れました、(一読されてない方は先に読まれてください。)
「あなたはあなた、ありのままでいいのです。」
「まず自分が幸せになることです。」
「善悪というものは本来はない。」
「努力は必要ない。」
こういったものですが、
最近の巷のスピとかニューエイジ系と呼ばれているブログやサイトで数多く目にするようになったこれらですが、
他にも類似するものを見つけました。

「自分が欲するワクワクすることを選べ。」や、
「せねばならないという義務感を手放せ。」といったものなど。

なぜこのワクワクといったものが闇の勢力側の洗脳手段の一つとして数え挙げたのか?
なぜ「義務感の放棄」を闇の勢力側の洗脳手段の一つとして数え挙げたのか?
実はこれらには皆共通するものがあるのです。
もう一度並べてみますが、

1、「自分が欲するワクワクすることを選べ。」
2、「せねばならないという義務感を手放せ。」
3、「あなたはあなた、ありのままでいいのです。」
4、「まず自分が幸せになることです。」
5、「善悪というものは本来はない。」
6、「努力は必要ない。」

他には、これらの言い訳に使われがちなものとして、
「宇宙は何が起きようと完璧だから。」といったものも挙げられるかもしれない。

この他にもまだまだ闇の勢力側が流布せんと広めている思想はあるかもしれないが、
とりあえずはこれらを今後文中では、堕落の六項目と呼ぶことにします。
さてどうだろうか? 一つ一つを読んでみて何かを感じないだろうか?
これらはどれもがまるで幼児期の自我そのものなのです。
この幼児期の自我が思想として社会に浸透した場合、大変に危ない成年が増えてしまうのはお判りいただけると思う。
人生というものは社会との関わりであり、自我ばかりを押し通すものではないと言う事を普段私たちは知っている。
しかし、上記に挙げた、幼児期の自我が個人個人に広まってしまうと、利己主義な思想を持った者ばかりになり、
国や社会は崩壊をしてしまう。

例えば覚せい剤やアヘンといった麻薬があるが、なぜ世界の多くの国々では悪とされてきたのか、
所持をしているだけで死刑や終身刑になる国も多い。
なぜこうして麻薬は重罪なのか?
上記に挙げた六項目に当てはめてみるならば、むしろ個人が快楽を享受すると言う点で、肯定すらされかねない。
麻薬が多くの国々で何百年も遠い昔から重罪とされてきたのには訳がある。
人々が欲望に溺れるようになり、労働を放棄し、責任感や義務を果たさなくなり、国がみだれ、飢えてしまうからだ。
働くのがばからしくなってしまうからなのだ。 欲望に溺れ、好きなことだけをして過ごす。
自然、モラルも低くなり犯罪の温床となる。 農作物の収穫も落ちてしまう。
巡りめぐってインフレーションとなる。 これらを傾国と言う。
国が飢えるとはどういうことか? それはその個人までもが飢えることなのだ。
しかし欲望に溺れる者はそれを知らないし気づかない。
そう、自分たちで自分の首を絞めることに気づかないのだ。
社会との関わりを自分たちで破壊してゆく。 そしてついには束となって社会をも破壊してゆく。
だからこそ麻薬は遠い過去からどの国でも重罪なのだ。

さてどうだろうか? 麻薬に例えてみたが、上記六項目は、人々のモラルの低下や、社会を壊すという点で一致しているのだ。
それは徐々に人々に浸透してゆく緩慢な麻薬。

人間は本来、社会生活を営む以上、労働や学問なども含め、好きでもないことでもやらねばならないものなのだが、
「ワクワクをなせ」とはなにか?それは己が欲する欲求であり、その精神レベルは低い。 
なぜなら六項目によって同時に植えつけられてゆくものには、
「せねばならないという義務感を手放せ。」といったものや、
「自分の幸福をまず第一に追求する」といった、利己至上主義が根底にあるからだ。
「ありのままでいい」とは、自身の姿に対して反省や向上心を放棄させるよう、後押しをさせるものであり、
「善悪を無視」してもよいと植えつけられ、モラルが低下してゆく。
これではまるで人類荒廃プログラムであり、犯罪者養成プログラムと言い換えてもいいくらいだ。
その上、「努力も必要がない」ときている。
怠慢で向上心が無く、自分の欲や得ばかりに目がゆく。
こんな人たちばかりの社会になったなら、
誰が彼らを止めるのだろうか?
隣人の多くが同じようにそれらの思想を植え付けられてしまったなら、
国家も社会も本当に崩壊してしまう。
まるでどれも殺人者や詐欺師、性犯罪者に当てはめたような思想ばかりだ。
実際、これら「堕落の六項目」は、犯罪者の言い訳の拠り所となるものばかりである、それはまさに「獣人化」と言ってもよいだろう。
しかしだ、彼らを止めたりすることはせずとも、飴と鞭により支配しようとする側の者はいる。
支配するためこれらの洗脳を広めてきた「光と闇の戦い」の、闇の勢力だ。(結果として光と闇、どちらが支配するかまではまだ不明ではあるが。)
上記に挙げた堕落の六項目にすっかり洗脳されてしまう人々というものは、
知的にも精神的にも退行をしていて幼いということであり、支配をする側にとってはとても都合がいいのだ。

なにしろ彼らは、それまでに植えつけられたこうしたプログラムによって、自分から考えるということをしない。
思考が停止してしまっているのだ。 云わば「獣人化」といってもいい。
こうして人々が目先の自分の欲望を満たすことばかりに心が囚われるよう洗脳をされてしまったなら、
いや実は既に多くの人々が、現在その洗脳の真っ只中にいるわけなのだが、
それは非道徳的で狡猾な巧妙さではあるかもしれないが、たしかに洗脳前の人々よりも支配をしやすいだろう。

これらはスピなりニューエイジ思想といった姿で私たちの前に現れ、
響きのよい甘言で少しずつ私たちに侵入をしてくるという、人格破壊プログラムなのだ。


これは実は決して絵空事ではない。
ヒトラーは存命中、多くの予言をし、それがいくつも現実となったのをご存知だろうか?
ヒトラーは自身の予言の中で、20世紀末から人類の二極化が進むと予言をしていた。(予言の中では1989年からだという。 既にはじまっているのだ。)
支配する側と、家畜のように飼いならされた、奴隷化する側の二つにどんどん分かれてゆくと。
その支配をされる側についてヒトラーはこういった表現をしている。
支配をする側を「神人」と表現をし、被支配側をある時は「獣人」と呼び、またある時は思考する力を放棄したという意味である思われるが、「機械人間」と表現することもある。
「それは永遠の未成年とも。」


以下は今お話したことに関連すると思われる、
ヒトラーの予言をいくつか並べてみたものだが、
特に重要と思われる箇所は赤文字にしてあるので注意しながら読んでみてほしい、
支配され奴隷側になる人々の特徴がよく表されているからだ。

これを読めば、堕落の六項目にあたる人たちが決して間違っても支配する側に立つのではなく、
支配される側に回ることになるのを理解できるだろう。

50年後の1989年から、人類は二極化する。
すべてを操り、他を支配する、非常に少数の者達。
すべてを操られ、他に従属する、非常に多数の者達。


こうして、人類は、完全に、2つに分かれる。
天と地のように、進化か、退化か、選ばされる。
一方は、限りなく神に近いもの、神人に近づくが、
他方は、限りなく獣に近いもの、獣人に近づくのだ。


一方、獣人は、それに従って、生きるだけだ。
これは、ある意味、とても気楽な身分と言える。
戦争も気候も経済も、神人に制御されているため、
神人が許す限り、彼らは、多くのものを与えられる。
食物、住居、職業、娯楽、恋愛、時には、思想さえも。

機械人間は、支配されている事を、意識出来ない。
彼らは、自分で選択していると、思い込んでしまう。
しかし、実際は、家畜のように、神人に飼われている。


大衆という名の無知な奴隷、永遠の未成年者集団。
そして、彼らの上には、特殊な能力を持つ貴族階級。
このように、闘争により、新しい身分制度が成立する。
これらについては、東方が、巨大な実験場となるだろう。


永遠の未成年とは、大人になれない者のことだ。
無論、そんなものは、正常な社会では有り得ない。
そうなる背景には、甘やかされた異常な社会がある。
大人になれない親に、ペットのように育てられるため、
たとえ、年を取っても、大人に成り切れない、のである。



このような、永遠の未成年者が現われる一方で、
幼少から、大人の理性と感性を持つ人間が現れる。
彼らは、胎児の時から、そうなるように教育される。
5つか6つで、彼らは、一人前の分別と感覚を備えて、
13、14歳にもなれば、並の大人を指揮する力を持つ。
(一人前の分別とあるが、少なくとも堕落の六項目に当てはまる人々でないのは理解できると思う。)

つまり、これは、両極端になる、ということだ。
肉体は大人でも、精神が幼児に止まるグループと、
身体は成長期でも、精神が大人を超えるグループと。

しかも、このことは、人間の発育だけに限らなくなる。


人類と社会、すべてのものが、両極端に分かれる。
例えば、資本、一方は、有り余るほどの資本を持ち、
止まりを知らず、豊かに肥える、貴族の階級が現れる。

他方、絶対に向上できない、未熟な連中も現れる。
支配者達が、笑えと言えば笑い、戦えと言えば戦う、
無知なる大衆、新型の奴隷、永遠の子供が増えていく。






ここでお断りをしておくが、小生はナチズムでもなければヒトラー崇拝者でもない。
ヒトラーの数々の予言が事実たくさん当たってきたという側面に注目をしているにすぎない。

引用は下記のアドレスより。
http://www.nurs.or.jp/~academy/meigen/ijin115.htm

以下も参考になる。
http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hss/b1fha400.html

2010/5/8 12:39 愛上王

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霊性精神性の進化

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 霊性精神性の進化

神性の進化について簡単なまとめ
http://firstdoor.jugem.jp/?eid=334

霊性精神性進化の為に必要な事
http://firstdoor.jugem.jp/?eid=328

今日は過去記事のピックアップです。


 今回も2つの記事ですが、
前半記事は、そのブログなり教えなりが、読者をどの位置まで連れていくことができるのか、その目安を具体的に書いてあります。
後半記事では足を引っ張ろうとされる方々の特徴や目安を書いてあります。

実の所、この霊性や精神性に関した記事は他にもまだ書き上げた記事がありますが、
このブログでUPする予定は今のところありません。
少しでもこうした事に関心のある、まじめに邁進をされることを望んでおられる方は、
別サイトであります、「ちいさな一歩」にご参加ください。
あちらの無料ワークショップでこうしたものも企画しておりますので。


 神性の進化について簡単なまとめ

 今現在、精神世界やスピリチュアルと呼ばれているものに触れておられる人たちにとっては、
おそらく意外に思われる方も大勢いるかもしれませんが、
霊性や精神性の向上、これはその魂の悟性や神性と置き換えてもいいですが、
これら魂の進化は、何かしら不可思議な理論や、スピ論のようなものを学んで進むものではありません。(注1へ)
私は特にこの部分を強調しておきたいと思いますが、
私たちの魂の進化は、実際は日常生活の中にこそその機会があるのです。
霊性や精神性の進化、置き換えて言えば悟性や神性といったこれらは、
何も滝行のようなものや、一般的に思われている修行や、出家生活のような特別な事をしなくとも、実は日々進化進歩を本来はしてゆけるものなのです。
(もし何か特別なスピ的な儀式や体系を学ばねば霊性進化もアセンションも超えられないのなら、
私たち人間のそのほとんどは無理ということになってしまいます。)



今後web上で進めてゆきます体験型ワークショップでは、
分類上では悟りにあたります、「見性」も可能になります。 (これらについては他記事を参照のこと)
これまで私は見性に辿り着くプロセスをそうとは知らずに、日々20年近く行ってきました。
それらを体系的にし、体験型ワークショップに組み込んでゆきます。

これは以前の記事で、見性状態にたどり着くことのできる方法として、
特別な修行をせずとも誰でも霊性精神性を磨いてゆける法の流布をしてゆくとお話をしました部分になります。




ここで今一度、以前の記事から抜粋しておきます。

【これは肝心な事ですが、私たち人間は、普段日常生活の中で、いわゆる滝行やら特殊な修行をせずとも、
そう、出家僧のような生活をせずとも、本来悟りに到達できるだけの資質を誰もが持っているものなのです。
(修行が無益であるとは言いません。適応性がある方なら進み方は速いでしょう。)
悟りだとか覚醒だとか霊性や精神性の向上、次世代を担う進化した新人類。
こういったものは特殊な修行をせずとも、本来誰もが手が届くよう、人間は神の創造により設計をされているのだと言いましょう。
なぜなら、私たち平凡な人間は、修行やら出家などをしなければそれらに手が届かないほど不幸な生まれをしてきているわけではなく、
人間の生の営みとして当然な、家族を持つ者であっても、そう、それは出家生活をせずとも、誰でも公平にそのチャンスは与えられているのだと。
もし出家や特別な修行をすることのできる、恵まれた者にしかチャンスがないのなら、
私たちの99%は生まれた時からそれらを手に入れる事はできないということになってしまう。
私たちは動物とは違います、知性と精神性を授けられた、自由に選択肢を選ぶことのできる、すぐれた生き物。
地球上の神の創造物の中で、この地を治めることを許された、最高位の種であることに疑いの余地のないことだからです。】




 精神性や霊性の向上は、その人の人々との関わり方にあります。
人間よりも進化しているであろう天界の住人、それは神人なり、
そして神々、完全に悟性を開ききったわけではない修行中の菩薩であれ、
その魂の姿勢は、他の魂に向けた■利他心■であります。
(より厳密には利他心の更に進化した姿、自他同一ですが、ここでは割愛します。 私のブログやサイトなど、これまでの記事や今後の記事をご覧ください。)
この利他心はひとつめの自身の成長にも当然及んでおり、
日常で人々に利他心をもって接して生活する人は、菩薩や神々らのように、自身の霊性や精神性など、神性を高めてゆくことでもあるのです。

精神世界系やスピ系なる分野の教えにあたるもので、隣人に対しての利他心について触れていなかったり、
重要視をしない、もしくは軽視をしているものは、実際は決してその人の神性を引き上げるものではありません。
これはその論や体系の姿勢と言ってもいいですが、
おおまかに分けて、
「利己中心」
「利己利他混在」
「利他」

この三つに分けられますが、
論と勧める行いの内容が「利己的」なものなのか、「利他的」なものなのかで
その魂をどこに連れてゆけるかがそのまま示されているのです。
利己的な教えが神々や菩薩らの基本姿勢である、
利他的な境地なりステージにまでは引き上げることがないのはお分かり頂けると思います。


ですから、我によしが基本となっている利己的な教えは、同じように利己的な状態に縛り付けるもので、
一見どれだけ高尚な教えのようにみえたとしても、その人の魂を進化させることはありません。
私はこれを、意識的にせよ、無意識にせよ、こうした教えを流布したがる方達は、(注2へ)
「光と闇の戦い」の闇側に加担してしまっている人たちの教えと判断しています。
一見同じように霊性や神性の進化を勧めているようにみえることが多いですが、
闇側の教えかどうか見抜くには、その内容にもっともらしくこじつけた、
利己的なものが盛り込まれているか否かで見抜けるのです。

(闇側に加担をしてしまっている方達は、本日以降、愛とか一見利他的にみえるものを多く盛り込もうとされる方が急増します。
ですが、今日以前の過去の記事群と読み比べれば、らしく装うことでごまかそうとしているのかがわかります。)





注1、巷にスピ系の高額セミナーが存在するのは、実際は受講者のためでなく、開催者の金儲けのためにあります。
そのしるしのひとつとして、何度も通うようにリピートを勧めてくるはずです。

注2、無意識に加担をしてしまっている方らは、こうした世界にて
金儲けのために参入されてきた方々が多いので見分けるのは決して難しくありません。

2011/6/24 6:11 愛上王



 霊性精神性進化の為に必要な事

 もう2週間くらい前になりますが、関東圏では、
2007年の年末頃に大きな問題になりました、牛肉偽装の再現TVをやっていました。

これら食品偽装はやってはいけないことで

そのTVではそれら食品偽装に手を染めていった様子が実話を基にしたドラマ仕立てで映しだされていました。
はじめ、同業他社に価格競争で勝つため、
本来なら廃棄にされる肉を卸業者から仕入れ、それを正規品かのように扱い、販売しだし、
次第にその不正はエスカレートしてゆく。
増量やコストを抑える目的と思われるが、
コッペパンをミンチに混ぜたり、
ビーフのはずなのに豚肉を混ぜたりといった具合に。
次第にさらに大胆になり、豚肉100%なのにビーフとして販売をしてゆく。
こういったことがなぜできるのか?
それはお客には真贋などわかりはしないというタカをくくった気持ちが一連の不正の間に芽生え、
何をしてもわからないと消費者を見下す気持ちが強くなっていったものと思われます。
そう、へっちゃらになってしまうのだ。
理性や神経が麻痺してしまうといっても言い。

これと同じことが今現在のスピ系や精神世界系のブログやサイトでも言えます。

おそらく最初はみんな、ほんの少しだけのつもりなのかもしれません、
妄想作り話をほんの少し盛り込み、
バレる気配がないのをその目で知り、
次第にエスカレートしてゆく。
いつしか不正に対して歯止めはなくなり、ためらいはすっかりなくなってしまう。
すると妄想作り話やパクリなど、不正の種類手段は問題にはならなくなってゆく。
見つかりさえしなければ、バレさえしなければ、ナニをしたっていいのだとなってしまう。

これは理性を壊してゆく過程とも言えるもので、
抜け出せなくなるパラドックスに自分から邁進してゆくようなものとも言えます。
なにしろ引き返すための理性そのものが麻痺してゆく過程でもありますから、
引き返すことすら思いもよらないようになるのでしょうね。
「甘いお菓子 光と闇の戦い」や、その「続編」で触れました利己主義思想、人格破壊プログラムもこれらと同じです。
はじめゆっくりと、次第に傾斜の強いものになり、這い上がれなくなってしまいます。)

豚肉100%の肉をビーフと詐称して堂々と売る神経は、まともな理性を保っている人には到底できません。
バレたらえらい事になると容易にわかりますからね。

ではなぜこうした不正をする人らはそうしたことを平然とできるのか?

私はこれらは、
日々のちょっとずつの不正の中で、
理性を壊し、モラルを欠いてゆくための一種の訓練を、
自分から喜んでしている状態なのだと考えるのです。

これらはいわゆる一般で言われる所の、後天的なタイプの方の人格障害に、
自分から進んでなってゆく過程でもあると考えています。

先天性のものは別だと考えられますが、後天的な人格障害などはこうした、
日々身を置く環境や価値観、こうしたものが多大な影響を与えているのだと。

いわゆる反社会性人格障害や境界性人格障害など、
他者を省みず、利己の利益や快楽のために不正を行うことに対し、罪悪感が薄れているか、もしくはない。
もうお気づきと思いますが、
これらはそのまま理性が麻痺してゆくよう、
不正を積み重ねる訓練をしていった結果なのだ。

不正やモラルなき行為は、精神世界で指すところの善や悟性などから遠ざかり、
魂の自由からも益々遠ざかる行いとも言えます。 それは実質、霊性や精神性の進化において、
魂の退行であり、魂の野蛮化と言ってもいいものだからです。

やれそれがアセンションだとか、進化だ二極化だ、本当の真我だとか言いつつ、
実際の行いはそれらとは遠ざかる行いであると。
精神世界、それは今風な言葉で指す所のスピもそうですが、
こうしたものに携わる人、触れてゆく人々にとって、
モラルなき不正は相反したものなのです。

余談にはなりますが、こうしたものは矛盾と言えるもので、以前に「上を向いて歩こう」内でも書いた記憶がありますが、
失敗するダイエットにも大変似ています。
やせたいと望みながらも、実際の行いは甘いケーキを食べ続けてしまうというそれに。

他にはこんな表現で書いた覚えもあります、
(このブログにも一部載せてあります「上を向いて歩こう」内です。 お暇な時に読んでみてください。)
白いものを欲しがりながらも、
両手で別の黒い物にしがみついている状態なのだと。
ならまずすべきことは、両手を離し、そうして白いものをつかみにゆくのだと。
こうしてはじめて本来欲しているものを本当に掴むことができるのです。


これは重要なポイントになりますが、私たちは何かを得ようとしながら得られない事ままになるのは、
大抵はこうした何かしらの矛盾を行っているからなのです。



今回の記事は「ちいさな一歩」内の無料ワークショップ内で扱う予定のものの一部を、煮詰めて書いてはいませんが、
暫定的にこちらブログで記事にしたものです。
校正、清書をしましたらば、「ちいさな一歩」の無料ワークショップに移行します。



2011/6/17 6:00 愛上王

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事象を把握することと、事象をどう対処するか

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 事象を把握することと、事象をどう対処するか

 あるがままとは、これは現状や事象をなんの曇りもなく把握することを言います。
ですが、それら事象をどう対処するかは、まったく別の事柄なのです。
あるがままでよい人は一人もいません。


今日は過去記事のピックアップです。


ニセ霊能者を見分ける鑑識眼のポイント

 本当にあるがままでよいのか

まずはたとえ話を。
仮に、もしもお向かいの家が火事であったとしましょうか、
家が燃えているわけです。
それはもう壁や柱や家財道具などのすべてがです。
「この事象を」、なんの偏見もなく、レンズがくもることなく色を通しておらない、
ただそのままストレートに受けとめて観る。
これがありのままであり、そのまま、
そう、「あるがまま」なのだ。
(より厳密な見つめ方、捉え方は、「見性」時でなければその純度は下がるわけですが。)
しかし、どれだけあるがままに事象を観、受けとめたとしても、
だからといって、そのままあるがままで「よい」という理由にはなりません。
私たちはそのあるがままの事象に対して対処をしなければならないものだからです。
事象をくもりなく受けとめて見つめ、

「あるがまま」事象を把握することと、
その事象をどう対処してゆくべきかは、
まったく問題が違う事柄なのだ。(注釈1へ)



そう、私たちは、火事がおきたなら、
ただ傍観するのではなく、それを消さねばならないのだ。



さてでは仮にですが
もしも自分の人生に「あるがままでよい」とし、
受け入れたとしたなら、どういった人生が待ち受けているでしょう?
それは向上心も進歩もなく、幸も不幸も泥棒も、火事に遭うのも詐欺に遭うのもなにもかも、
起きるままに、ただ消極的な、流されるだけの人生になってしまう。  
(ここではかぶるのでこれ以上は省きますが、関連記事、「読者からのコメントに答えます」を参照のこと。)  
最近はブログなどで、こうした「あるがままでよい」といった概念が哲学精神系世界や、スピと呼ばれる世界で見受けられるようですが、
読者に対して受け狙いで、さも理解があるように演出された神様風仕立ての記事、
こうした、実際は理解の浅い、
知ったかぶりで無責任な記事なり情報に惑わされないよう気を付けねばいけません。
今やネット上では、おそらく神様はこんな風に語るだろうといった、想像で創作されていたり、
体得をしていない、ましてや真理でもなんでもないものを、
どことなく神様風に仕立ててみたり、
何か深淵な知識かのように守護霊からのメッセージに仕立ててあるものがあちらこちらに散乱していますが、
それらを読んで真に受ける人々は、
実際に自分の人生を台無しにしてしまうことになることをもっとよく知るべきです。


真に高位の神霊は、
人間が堕落しかねないものを教えることは絶対にありません。
向上や進歩に関わるものを人々に伝えんとすることはとても重大な責任がともなうものなのです。





(注釈1)、神様風や、守護さん風に仕立てて創作してる人、
要するに話をでっち上げている人というものは、(簡単に言えば、インチキさんらのことですね^^)
これは皆さんに是非覚えて欲しいものなのですが、
こうしたように、物事の本質部分をごちゃまぜにしてしまい、キチンと分別出来ていないことが多い。
創作で書かれたでっち上げや妄想話は、
その記事なり話なりをこうして緻密に冷静に読みますと、
整合性などの点で矛盾していることが大変に多いのです。


これは私が得意としています、
インチキさんらの見分け方の内の一つでもあります。



今現在、スピブーム便乗組の中でも、なんら能力もなにもなく、流行りに目をつけ参入をされてきている方達の多くは、
ブログ等であいまいいいかげんな知識を流布しています。
(これらはでっち上げ創作話や、盗作や聞きかじった話をあいまいな理解のまま歪曲して記事にされてる方らです。)
それらはそうすることによって人々から歓心を得ようとしている方もおれば、
そういった人気者になりたいとはまた違う、スピと呼ばれる世界にて一攫千金を狙っているといった方も見受けられます。
皆様方にはこうした方らの思惑にくれぐれもご用心して頂きたいものです。
これは以前の記事であります、
「理解のあいまいさといったものが人生の邪魔をしています」をぜひ再読してみて頂きたいのですが、
残念ながら、多くの人達はこうした矛盾点に気づかぬままに、「なんとなく」や、そういうものなんだろうといった、あいまいなまま受け入れてしまいがちな人が多いのです。
ですから皆さんには、こうした、「話の整合性」や「矛盾点」など、ある程度は見分けることのできる鑑識眼を持ってほしいのです。



さて、話をもとに戻しますが、
もしも仮に、本当に「あるがままでよい」としたなら、
私たちは向上や進歩進化に関心を持つ必要もなく、それらの書物やブログも読む必要もないこととなり、
一切は学ぶ必要がないということになってしまうのだ。



これは余談になりますが、これまで、精神世界系統と呼ばれるブログ等におきまして、
こうした事柄について警鐘をならされてきた方は、
他にはアルクトゥルス隊長さんや老翁さんくらいしか見たことがありません。
ランキングを退かれて数ヶ月経ちますが、
ぜひまたブログランキングに戻られて、あちこちで上位を取り、ランキングを賑やかにしてほしいものです。






今回この記事はメニューにあります、偽霊能者関連に振り分けるか少々考えましたが、
緻密に冷静にものごとを見分けるといった事を主旨としていますので、
「ちいさな一歩」内に置くこととします。
以降、校正、清書をしましたらばちいさな一歩のワークショップ記事とする予定です。



2011/5/25 20:55 愛上王





 読者からのコメントに答えます 2010/11/12

昨日、読者からのコメントにて、以下のようなものがありました。

> ☆がついていたのですが、愛上王さんからみて何かコメントというか、感じるところはありますでしょうか?

これはある方を指してのものなのですが。


昨日、実はですね、妙に気になる記事をみつけたんですよ。

よく、「そのままでいい」とか、「今のままでいい」とか、
「あなたはあなたのままでいい」、それがあなたらしさなのです。
こういった常套句をみかけることはありませんか?
でもこれって、実はその人への後退を勧めるものなんですね。
現状に甘んじる停滞とは、実際は人を後退させるものなんですよ、
「人にとっての悩みや苦難というものは、人を成長させ得るという意味においては、実は価値のあるものなんです。」
(こういった、作用反作用として自身に還る因果というものは、自身の不足や欠けていた面の成長をさせえる機会としても顕れるからです。)
それを放棄させるこれらの甘い言葉は巧みな誘惑と言ってもいい。

私ははじめ、、依頼によってこの方の鑑定を致しましたが、この方の概ねの内容は、
人々を励ます為の人生相談と判断し、良きものと捉えています。 よって大幅な星評価を致しました。
しかし内容は必ずしも高級神霊の言とは言い難いものとも判断をしていました。
それは、あまりに人間くさく多弁すぎる神だからです。
それは、まるで人間が人間に相談し、人間が答えている風でもあったからです。
ではなぜはじめ大幅な星評価をしていたのか?
神と名がつくものであっても、最高境地にたどり着いた如来でもない限り、
人に尽くそうと尽力される神々は皆、「菩薩」にほかならない。
私は、人間ですら生成途上の神のようなもの、いつかは目覚めて回帰してゆく存在で、
今は我を忘れてしまっている神のようなもの、そう捉えているんですよ。
ですから、完成しきっていない、精進の只中であるような神を卑しくは捉えないようにと考えております。
(私も、あなたも、魂は皆、途上の神なのだから。)

しかし、「あなたはあなたのままでいい」系の、甘いお菓子を振りまくような神なら宜しくないのです。
よって、本日、この方の星評価を変更致しました。
(関連記事であります、甘いお菓子 「光と闇の戦い」と、甘いお菓子 「光と闇の戦い」続編 をぜひ読まれてみてください。)


今のままでいいんだよ。 とか、あなたはあなたのままでいい。
こういったものは世に広く浸透していってはいけないんです。
DVをしようが、育児放棄してパチンコにはまる主婦だろうがなんだろうが、
浮気をしまくろうが盗作をしまくろうがといった、
こうした、人間にくだらぬ自己欺瞞で言い訳をするクセをつけさせるような、甘言など広まってはいけないのです。


2010.11.12

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人生にとても大切なもの

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今日は過去記事のピックアップです。


 批判は宝

 「特徴 偽教祖と盲信者の共依存関係の異常さ」では、
批判を嫌うのではなく、素直に受け入れるべきと伝えました。


ここでもう一度挙げておきます。

私たち、霊性や向上など、精神的なものや人生上の成功などに関わる者は、
今巷でスピと称されるものも含めてだが、
それらを説く者、学ぶ者に関わらず、
批判を嫌い、目をそむけるのではなく、
自らに未熟さや過ちがあるならば、それを素直に受け入れ、
自らを正してゆくのが本来あるべき姿勢なのだ。


この話の続きになりますが、
今回は惜しみなく、様々な分野で活用のできる、
普段の実生活で即活かせるものを、あなたに贈ります。




 よく、「批判からは何も生まれない」という言葉を聞いた事はありませんか?
はたして本当にそうでしょうか?
本当は批判がどれだけ大事なものなのか、
私たちは普段気づかぬ振りをしがちなのかもしれません。
それは一口に、批判と言うと、ネガティブな印象を思い起こすからかもしれません。
過去を振り返ってみて、すぐに思い当たるのが、
叱られた経験、イコール 批判であると。

ですが私たちは完璧ではなく、あなたも、そして私も、途上の者に違いありません。
批判とは本当は、自らが内省して改めてゆく力が乏しい場合に与えられる贈り物なのです。
あなたはきっと周囲を見渡してみて、何かにつけ優れ、
秀でている人を、きっと見たことがあるに違いありません。
学校の勉強もそうですし、営業の仕事もそう。職人の仕事もです。
それらの中で抜群に秀でている人には、大きく分ければ2種類あります。
人からの声を素直に聞き入れ、上達をしていった人たち。
もう一つは、人に何かを言われてはじめて奮闘をするのではなく、
自分から進んで内省をし、どうしたら上達をするのか、自分自身が己の批判者だった者。
それは、人からの声をもらう前にどんどん上達をしてゆく人たちでもあります。

しかし、自分自身が自分に対する批判者である事は、実はとても難しい。
自分自身を厳しい目で見つめようとする事自体が、容易な事ではないからですし、
それ以上に、自身のどこをどう改め、どう伸ばしてゆくべきか、
客観的に判断してゆくのがそもそも難しいからです。
しかし、もしそれらができるなら、大変な理想です。
自立が完成してる人間とは、このような人を指すのかもしれません。

でもですよ、私たちはもし、自分自身が己の批判者になれなくとも、
その場合は周囲が助けてくれるんです。
それが批判という贈り物。
批判とは、なんとわざわざ他人が時間と労力を削ってくれた上で、
私たちに届けてくれるんですよ。

残念ながら、人間は、自分自身の批判者には中々なれず、
そしてまた、大変にもったいない事ですが、
他からの批判も中々歓迎をしようとはしない。

なんともったいない事か。
これ、どういうことなのかさっぱりわからない人もいると思います。
己自身という批判者、他からの批判、そのどちらも受け入れない人は、
何を取り組んでも、実は中途半端に終わってしまうんですよ。
それらは学校の勉強にしろ、営業の成績にしろ、職人の上達にせよです。
それは例えれば、監督なりコーチなりが不在のまま、
少々だらけぎみでも文句を言う人がいないのと同じ事なのです。
ところが、自分という批判者、他からの批判、
そのどちらかでも受け入れている人たちは、たいていは何をやらせても優れ、秀でているのです。
だからもったいないと私は言ったのです。

でもこれだけでは受け入れにくい、納得をしがたい、
そういう方もいるかもしれませんね、
なので今日は実話を二つほど。

ある時、東京は高田馬場に、一軒のラーメン屋がオープンしました。
開店したての頃、お客になんと、「まずい」とはっきりと言われたそうです。
(まずいものをまずいと言ってもらえるなんて、なんとうらやましい事か!)
その後、すぐに店を閉めて、三週間、新しいラーメン作りに奮闘。
結果、大行列の店へと変貌を遂げた。
その店は、ある年の大晦日に、TVでやっていた全国人気ラーメン店NO1に輝いた、
あの、「俺の空」というラーメン店。

同じくラーメン店で恐縮ですが、
げんこつラーメンで知られる「花月」の大チェーン店もそう。
最初の頃、創業者はお客に、「こんなまずいラーメン食えない、インスタントのほうがまだまし。」
そう言われたのをきっかけに新しいラーメン作りに入った。
そして今の味があるし、チェーン展開も大成功をしている。

もし、どちらの店の主人も、批判を受け入れず、
塩を撒いてお客を追い出してしまっていたなら、
これほどの成長はなかったかもしれません。
私は、批判を自ら受け入れた両店主に、拍手を送りたい。

つまらないプライドと批判という名のコーチ、
私たちにとって本当に益があるのははたしてどちらでしょうか。







批判は、私たちの無料のコーチです。
そして批判は、「他カラ」やってくるもの。
つまり、批判とは、本当は「宝」なのです。

2009.06.01愛上王




 批判は他カラやってくる宝  

 なにやら最近の記事のコメントでは、インチキはだれだの、偽はだれだのいうのは批判だか非難なのだという意見もあるようです。
しかし被害者抑制は私のケジメですからね。


 1/7の記事にて、私は以下のように記しました。

> まずは私がこれまでに書いてまいりましたものを、お暇な時間が取れた時で結構ですので隅々目を通されてみて欲しいのです。
> その上で、まずはこの私を懐疑して欲しいのです。
> そう、なんでもかんでも鵜呑みにするのではなく、
> もしも私の記事で突っ込みどころがあるようならぜひ突っ込んで欲しいのです。
> 矛盾はないか、話に整合性はあるのか?
> 愛上王という輩の姿勢はどうなのか?
> 突っ込みどころがあるようならぜひお願いをしたいのです。
> 私は、正当な筋の通ったものに限りますが、批判は歓迎なのですよ。
> 自分の背中は自分ではなかなかみれないもの。
> だからこそ隅々を読んで頂きたいのです。


しかし、他の記事にはコメントはつくのに、この該当記事にはなぜかコメがつきません・・・
正当なスジの通った、感情論ではない「理」に適う批判。
なぜこないんでしょうかね。

もし、感情論や偏った希望論、抽象論でなく、キチンとスジが通っているのなら、
「批判」というわかりやすい単語で表してはいますが、
これは驚く方もいるかもしれませんが、本当は「建設的な意見」なのですよ。
たとえば、以前に記事、「批判は宝」でもお話しましたが、
まずいラーメンをまずいと店主に教えてあげることすらも、本当は「建設的な意見」なのですよ。(本当にまずいラーメンでなければウソになりますがw)
しかしこれ、かなりの人は、なんてひどいことを言う客なんだろうと考え、終わらせてしまうかもしれません。

スジの通った批判を避けたがったりする人、
喜んで受け入れる人、
これには大きな違いが出てきます。

それは「批判は宝」に記した通りです。



さて、たとえばですが、この私に関する批判があったとしましょうか、(今後は出てくるかもしれませんね、感情論ではない、理にかなった、スジのあるものなら歓迎です。)
この私がこれからやろうとしていること、やること、これまでの記事、今後の記事、思想、こうした様々なものをみつめ、
もし幾ばくかでもこの私を信じ、ささやかながらも応援してくださる方々、
こうした方々が、もし私の批判を耳にしたのなら、
その批判に耳を傾けるななどとは言いません。
もし批判があるならよく耳を傾け、まずはじっくりと聞きましょうまで言うことでしょう。
(そのようにしてくれる方は、すでに妄信さんではありません。姿勢ができてるわけですからね。)
もし批判があるのなら、
私たち人間のすることは、自分に愚かなミスがあるのなら、慌てふためいて誤魔化すことではないんです。
そう、その時はその批判をじっくりと聞いて欲しいのですよ。
その上で、その話に信憑性はあるのか?
矛盾はないか?整合性はあるのか?インチキ霊能者さんらが私を貶めたいがためにデッチあげてはいないか?
よくよく冷静に吟味はすべきですし、
しかしもしもそうでなく、この私に落ち度があっての、話にスジある批判であったならば、
     こんなにありがたいことはありません。
この私が省みなければならない点をなんと親切に教えてくれるものなんですからね。


さてここでひとこと。
批判とは他カラやってくるであると。

さて、しかしそうでなく、批判を嫌がる方も世にはいる事と思いますが、
その批判にキチンとしたスジがもしあるのなら、それは自分のあらためてゆける点を受け入れないことになるわけですから、
それは大人の態度とは言えないでしょうね。

これは精神性進化の道しるべのひとつでもあるのです、
幼少のころはたしかに多くの人は受け入れたがりませんよね、
ところがですよ、段々と成長をしてゆくと、
親でも教師でも親方でも兄弟でもなんでもいいですが、
注意をすることがあると思います、受ける本人はただ批判をされているだけと思うこともあるでしょう、
しかしそれは決して憎くて言ってるわけではないですし、
本人もいつしかそれは、自分を憎くて言っているわけではないと知り、
自分が親になったときにはすっかりそれらを理解しています。
これは苦労をされてきた親御さんならよくわかる事と思います。
さて、一連の流れを見ていただいてわかると思いますが段階があるんです。
受け入れる段階にいる方は精神性や霊性進化など、先に進む準備ができている方なんですね。
それは学びであり、吸収であり、改めるべき点があるなら改めるという姿勢のできあがっている段階。
これは成長であり進化のスタートラインとも言えるものです。
こうなってくると、以前の記事のラーメン屋ではないですけど、大躍進すら可能になってくるんです。


私はこれらを戒と呼んでいます。(参照記事、http://firstdoor.jugem.jp/?eid=152
スタートラインは皆、基本である 戒 から始まるんですよ。
戒を敷きつつ奨を行うと。






大人になってゆくと、苦いものも好きになる。
それにも似ていますね。


ピーマン食べれますか?
大好きですが^^;

2011.01.12 愛上王

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私たちの行動の根底のすべては「愛」にあります

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 私たちの行動の根底のすべては「愛」にあります
 
 今日は過去記事のピックアップです。

 この元記事は一番最初は、「CuteGirlsJapan」内のサブコンテンツであります、
「上を向いて歩こう」内に2001年正月にUPしたものです。

 【 より愛されるために 愛 】

 恋愛は一種の人間的な小さな積み重ねの訓練であって、最終的に研磨された時に完成し、
これに結びつくゆえに人間の愛と云うものは深い意味と高い価値を持っています。
遥か先のこの段階は「至上愛」であって一般が指す「恋愛」ではありません、
相応しい言葉が思い浮かびませんが、敢えて呼ぶとしたら博愛や大愛といったものかもしれません。
この一切すべての者を愛する者となる時に至上愛は完成するのですが、これに至るには段階があります。
愛する為には愛する者の欠点を自己の中にも内在する写し絵と捉えて許さねばなりませんね、
それではここで一つ簡単なテストをしてみましょう。
 あなたの愛する恋人が突然あなたの大嫌いな人の姿になってしまいました、顔も姿も行動や性格までもです。
さて正直に答えて下さい、今までどおり愛する事はできますか?
身体的特徴ばかりでなく性格や行動、言葉、
こういった一切が今たとえにした人物と寸分違わずになったとしたならばあなたは愛せるのか?
たとえどう変わり果てようとも愛しているともしあなたが答えるならば更にお聞きします、
あなたの愛する人が突然容姿や性格、その他全てが変わり果てても愛せると云うならばなぜその者にだけ執着して愛するのか?
この問いは多少無茶のある事ですが非常に大切な部分なんです、
姿がかわり果てたならば愛せないと答えるならばあなたは相手が年老いて醜くなれば今の愛を持続させる事は難しい、
姿がどう変わろうと愛せると答えるならばあなたは人間的心の段階としては高みにいると云えますが更にお聞きしたい、
今愛する者がどう変わろうとも愛するならば、その他大勢の姿形や性格も全く異なる別の人たちを今愛してる者と同じ様に愛さないのはなぜですか?
2000年も終わりに近づいた年の瀬にこの心のテストを自分で作成し、実際に私が自分でやってみました、
愛する者の姿形、行動や性格すべてが最もいとわしい者であると仮定して。
うーん 難しい・・・ 正直答えましょう、今の私にはまだ無理でした。
このテストをしてみてどんな姿形に変わろうとも私はそのいとわしい者の姿や全てを愛せると答えられる方もおられるかもしれませんね?
しかしそれは嘘になります、その答えは偽善なのです。
愛せると答えたら偽善? これではテストは無意味、問いにもならず答えもないのでしょうか?
どのような姿形や性格の者に成り果てても愛せるかという問いですのでここではわかりやすくもっとも自分が嫌いな者、
最もいとわしい者を私はひきあいにしたわけですが、この嫌いな人物をこのままで愛せるわけがありません。
ここに行き着くにはこれを成す為の土台が必要です、それは全てのいかなる者も愛する以前に、全てを許すという事。
これをもってして初めていかなる姿形であろうとも愛する事ができる。
ではいかにしたら全てを許せるようになるのでしょうか。
私たちのミクロなる個における通常の恋愛は、もっとマクロな人間の完成という視点からみつめた途上のものであり、
私たちの心の成長の度合いそのものは愛の大きさにほかなりません。
それは人間的相対的な偏った執着が含まれた、一部の者を愛するという成長段階から全ての一切が同一であると知り、
差異なく愛するというゴールに向かう迄の途中の形態、この途上の形態こそが私たちが住む世界における一般に指す「愛」。
この心の成長度合いともいえる愛の大きさは目で見て測れるものではありませんから説明が困難ではありますが話を続けましょう。
利己心が強く愛の小さな人もいれば愛の大きな人もいるように、愛とは実際に育つものなのですが、
愛の大きさがある程度強くなってゆきはじめると、人は許す気持ちそのものである寛容心が愛と共に一緒に大きく強くなってゆくのです、
寛容心とは愛ゆえのもの、愛の側面の一つだからです。
そして私たちは実はどんな人であれ、この自己の中にある愛、恋愛をも含む全ての愛を実は日々大きく育てようとしています。
これはエゴの強い人であれ犯罪者であろうと一切の例外なく全ての人がです。
これを読まれている読者の中には、私は日常で愛など求めてはいないと言われる方も中にはおられるかもしれません、
ですがそうやって否定する事すら愛を求める一つの形態なのです。
例えば誰かが著者である私を嫌いとしましょう、これすらもその人にとって愛で満たされたいゆえなのです。
(注、私に愛されたいというのではありません。)
あなたは悲しい時涙する、寂しさを知り、痛みをも知る、これこそ愛を求めてやまないしるしなんです。
こうやって誰もが必ず日々例外なく愛を求め続けているのです。
そう、私たちは実はこの肉体的本能や人間的執着が根底である恋愛以上のものを何よりももっとも求め続けて生きてきたのです、
その求めつづける姿は満たされるまで続く渇望。
「私たちは実は一切すべてから愛されたい。」これは誰もが全てにおいてです。
一切すべてから愛されたい、これをわかりやすく言葉や文章にする事は非常に困難なのですが、幾つかの例えをしてみたいと思います、
これは心で感じ取るものであって、言葉や文章といったもので言い尽くせるものではありません、
ですので書き進める例えを何度も何度も読み直して下さいますよう強くお願いをします。
 ある者が自分の欲する事をする、求める事を行う、これは愛されたいゆえになのです。
え? これではわからない? 確かにそうですね、では話を続けましょう。
ある者が恋人を欲しがる、それはその様に願い、その様に叶い、
その様に成り得た時の恋人との様々な生活が、「本来奥底で求めていたもの」を満たせると信じているからです。 
その私たちが本来奥底に求めているものとは絶対不変の愛、絶対幸福と言いかえても良いかもしれません。
この自己の絶対幸福状態である全てにおいて愛される事を望むゆえに私たちは日常で様々な差異や不幸までも自ら生み出しているのです。
さあ意味がわかりずらいですね、例えを続けましょう。
ここではあるやくざが居たとしましょうか、このやくざはお金を求める為にある時は自己に都合よく暴力をもってそれを為す、
女性を求める時、ある時は正攻法に口説き、またある時は暴力であるかもしれない、そしてある時は欺瞞によって。
またある時は権力を求める、他人と競争をし、ある時はたくらみ、人を蹴落とす。
全ての思考と行いが、「愛」されたいが為に人は顕す・・・ 奥底で求めているものを掴む為に。
そう、私たちは何よりも心から求めているものを掴むために見誤ってしまっている、
全てが実は代替え行為。 だからこそ実はいつまでも満たされないでいるのです。
恋人を求めるのも
友達を求めるのも
お金が欲しいのも
出世をしたいのも
尊敬をされたいのも
立派な家に住みたいのも
立派な会社に勤めたいのも
美しいくありたいのも
綺麗な服を着たいのも
愛を終らせ別の人を求めるのも
嫉妬をするのも
憎むのも
争うのも
これみなすべて奥底で求めていた不動なる絶対愛に満たされたいがために。

殺人犯であろうとやくざであろうと例えどんな人であっても、
奥底で求めていた絶対愛に満たされた時、一切の悪行は消える。
もう満たされずに盲目となって他の事に求める事をこの瞬間に終える。
善い事も悪行すらも、求める愛で満たされたいゆえに私たちは欲望を放つ。
これは私もあなたもかわりない、求めてやまない欲の根底は清浄なり。
あなたがその様であるならば私もその様な者そのもの、
これを知る時一切のものに嫌悪する理由がここに消える。
私たち人間が求めている不動なる絶対愛を求むには同じく一切を愛する事、
一切を愛するには一切は清浄で差別がないと気づく事、
至るには、一切の人の成す事象は清浄なる欲ゆえであると知り、
清浄なる欲から発露する誤った悪行すらも許すと云う事、(行わせてはならないが。)
嫌悪が消え去る時、全てを許す自己を見出す、
いかなる者も許した時、私たちは一切を愛する者と成る。
一切すべてを愛した時、私たちは奥底より真に求めていたもの、一切すべてから愛される、
どんな悪人であれ、一切すべてを愛する者となった時、一切すべてに愛されて罪は消えさる。





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覚者の度合い

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 覚者の度合い

 今回も過去記事のピックアップになりますが、
クリックをし、直接読まれてみてください。
この記事は当時、とても重要なことを幾つか出し惜しみをせずに書いたものです。(ピックアップしてる記事はどれもそうなのですが。)


 「見性の特徴のひとつ(悟りの特徴一部)」

この記事は、「悟り」の特徴を部分的に挙げてあります。




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神示について

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 神示について

 今回も過去記事のピックアップになりますが、
クリックをし、直接読まれてみてください。

ニセ神示の見分け方  続報 ニセ神示の見分け方


近日、神示の見分け方の続きをまとめ、更新する予定です。


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愛と幸福、人生の成功を実現する者、それは行う事のできる者

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 愛と幸福、人生の成功を実現する者、それは行う事のできる者
 
 今日は過去記事のピックアップです。
(管理人の別サイトであります、「CuteGirlsJapan」で長らく公開をしてきました「上を向いて歩こう」より。)



著作権は 愛上王 に帰属します
転載や引用、再配布は固くお断りします

Copyright (C) 1996-2003 愛上王 All right reserved
lovenet@tky.3web.ne.jp



 【 愛と幸福、人生の成功を実現する者、それは行う事のできる者 】

 求めるものは境界線のようなものです。 望むものは本当はすぐそこにあるのです。 
いつも私達はどちらかを選べる境界線にいます。
今の自分を楽にさせてくれる道と、進むのが一見難しそうにみえる道。
私達はいつも夢や希望を捨てたことがありません、なのに求める物を掴もうとしないまま人生が終わってしまう。
いや、そんなことはない、いつだって本当に満足できる自分、夢と希望を求めている。
そうつぶやきながら私達は時が過ぎてゆく中でただ黙って過ごしてきた。
 この「上を向いて歩こう」を書き始めてから7年間、私は原稿を書き続けながらずっとひとつの業界に身を置いて、
その中で愛や夢、幸福を求めている人たちをみつめてきました。
皆誰もが幸福を求めています、なんの希望もない人は誰一人いませんでした。
ある人は生活のよりよい改善を求め、ある人は裕福になることを求め、皆少しだけ熱く夢を語るのです。
けれど誰一人自分の夢を叶えてみせた者はいませんでした。
なぜでしょうか?
ある人は独立して自分で商売を始めたいと言い、ある人は国家試験に合格し、この業界で出世し、もっと沢山の給料を得たいと望む。
そしてある人は理想の恋人を求めている、生まれ生きた時間よりも長く過ごす生涯の伴侶、何が起きようとも互いに支えあう誠実な異性。
そんな夢と希望を持ち続けながら誰もそれを掴めない。
でも本当は、自分が心底求めている夢と希望を現実のものとしようと誰一人してはいなかったのです。
求めた夢や希望が得られないまま数年が経つと皆一様に同じ事を言う、
「こんなはずじゃなかったと。」
夢や希望、幸福は、ただ語るだけじゃついてきやしないのだと誰もが知っています。
なのに求めはしても何も動かない。
自ら動かなきゃ歩けない、立ち止まったままじゃどこにもいけやしない。
 朝、いつもの一日がはじまる、昨日と同じ今日がまたやってきた、
始業時刻から終業時刻までをただ過ごしてゆく、毎日その繰り返しをしてるだけで私達は給料が貰える、
それのどこがいけない?
熱き希望を胸に膨らませながらも、こうしてみな口を揃えて同じ事を言う。
自分で商売興す時には絶対成功させるし頑張ると、だけど今のこの仕事で何も頑張る必要ないじゃないか、
あくまで生活のために仕方なくやっているのだ。 「誰だってそうだろう?」
皆こうして一様に同じ事を言う。
そうかもしれない、あるいはそれがごく普通なのかもしれない。
就業時間をただ過ごせばいい、今のこの仕事は生活のために仕方なくしてるのだと口にする人たちを随分とこの目でみてきました。
今一生懸命なれないでどうして自分が全部責任持たねばならない自分で興す商売が成功をするだろうか?
どうして夢や希望を現実のものとして掴むことができようか?
じっとしていたら誰かが夢や希望を叶えてくれるとは誰も思っちゃいない、なのに誰も自分からは動かない。
すべて望むものは、日頃の自分の姿勢なのだと分かっていながらも今のままでいようとしてしまう。
目の前にある自分を楽にさせてくれるもの、求めながらもみずから動かない自分を正しいと信じこませる、「誰だってそうだろう?」
「そう、人間は誰もが怠け者なのさ、周囲をみてみるがいい、誰も一生懸命などしやしない、人より余計に頑張る?
ばからしい、なぜ疲れなきゃいけないんだ? どうして楽にしてちゃいけないんだ?」
そうやって自分を楽にさせてくれる言葉で(注、自己欺瞞で)「自分を騙してはいけない。」
そうやって知らぬまま「自分を縛りつけてはいけない。」
「自分で望むものから遠ざかってはいけない。」
替わりに失うものはいつの時代も大きい、いつかこの世を去るときに後悔と不満でいっぱいになる時、
本当はそれを自分に向けて生涯を閉じてゆくのだ。
不甲斐ない自分をみつめては、求めてやまなかった幸福とは比べ物にもならない瞬間の刹那で日々満足していた自分の浅はかさに気づく。
幾度となく生まれ、幾多も経験した私の生涯。

 こうしていつも人が不本意なままで終わるのは、
求める夢や希望、愛と幸福にそって実際に行うというたったこれだけの事が欠落していたのだ。


 ここではそれをこんな話で。
ある会社では統括する責任者が退職することになり、本社から一人の責任者が新たにその支社に配属をされました。
その責任者、大勢の従業員をまとめる新しい上司は、一生懸命働く者には正当に評価をする者として以前から評判のあった公正な人物でした。
その上司は努力に見合う相応しい者を引き上げて昇進を与える者であると。
新しい上司のこの評判を聞いた者達の一部は、これで自分たちも正当に評価をされて出世ができるやもしれない、
給料も引き上げられるに違いないと内心思う者たちもおれば、
今までの上司と同様に正当な評価などされるはずもないといった具合でした。
これは目の前に求めるものがあってもそれを信じずあきらめてしまっていると言えばいいだろう。
しばらくするとその上司の許で働いていた何人かは昇進をし、給料が引き上げられ、より責任あるポストを任されるようになった。
行いに相応しいものが与えられたのだ!
しかし昇進を得ることのできなかった者達、特に先を越された形になった古参達は多いに不満を表す、
自分の方が長く勤めているのだから順番から言えば昇進するのは私のはずだと。
ここで読者はこの不満をぶつける者をみつめてこう思うことだろう。
「あなたの所有する会社ではないのだからあなたの勝手な自分に都合よいルールは通らないと。
得ることのできなかった者は本来、評価に見合うだけの仕事を一生懸命して昇進した者達と同じように、
自分も得るに相応しい行いをすればよかったのだ。
昇進を望みながらも得られなかったこの人は、その望むものに相応しいルール、
それは、「得るに相応しい行いを実際に自分がやる」ということによって得られたのです。
(注、正当な努力をしていてもえこひいきで昇進してゆく者もいる、そう言われる方もいるかもしれません、
ここでは本書も終盤なのでこれらの疑問をいだいたなら第二部の因果の章全般を読み直して下さい。)


 善き事も悪しき事も、すべて、与えているのは運でも天にまします神でもありません、
この話の中で昇進を得た者は、一見表象上は人の手によって与えられたかもしれません、
ですが本当は違うのです、
すべては自分が与えているのだ。
それはふさわしく。


 一切に偶然はないのです、一切に不公平というものは存在しません、
一切は厳粛に公正なのです。 なんの狂いもありません。
貧乏に生まれたのも、富豪に生まれるのも、身体が不自由なのも、一見差別をされることも、
成功も挫折も悩みも苦悩も−−−
生まれ育てる親を選ぶことすらも−−−
一切は自分が相応しく用意したもの。
愛と幸福を夢見て本当に掴むことも−−−
人生は自分の手によって思うままに変える事ができる
愛と幸福を選ぶなら−−−
掴むことができるのです
人生のすべては自分の手によって創っているのですから。


□ ここで読者にもう一度伝えたい言葉があります。
「どんな分野、物事においても私達はがんばる事ができる、最善最上を尽くす事ができるのです。
人よりがんばると疲れるとか損だとか楽をしていたいとか−−−
本当は些末でどうでもいいことではないですか?
働きと行い、心に見合うものだけを私達は受け取れます、
生きてゆく中で様々な自分が撒いてきた因果によってつらいことも苦しいこともあるかもしれません、
ですがどんな境遇にいようともですよ、因果を真に理解したとき、私達はこの世界の見方ががらりと変わるのです、
この世界は本当は私達に様々なチャンスを与えてくれているのだと!
因果を真に理解したとき、私達はこの世界が本当は薔薇色なのだと気づくのです。」 




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今回これを選び、ピックアップしましたのは、
何事においても、「そのことがらに相応しい」行動を起こして欲しいと思うからです。
私たちにはもうあまり時間は残されてはいません、
私たちはこれからを真剣に向き合わねばならないのです。

今現在、精神世界系に触れる人々の多くが陥っています、スピ遊びでうつつを抜かしている場合ではないのです。

どなたさまも、次世代を担う魂に相応しい行動をして欲しいと切に願います。

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輝く未来を創るために

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 輝く未来を創るために
 
 今日は過去記事のピックアップです。
(管理人の別サイトであります、「CuteGirlsJapan」で長らく公開をしてきました「上を向いて歩こう」より。)


著作権は 愛上王 に帰属します
転載や引用、再配布は固くお断りします

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 【 愛のステージへの導き手 因果の法則 】

 これまで私は、苦が自身に還るのは目先を追う事による過失からくるのだとお話してきました。
多くの場合人は、後々に注意をはらわずに目前の雑多な事に振り回されがちな生活を送っています、
これは目の前にある事こそが普段私達の気を引いてしまう問題だからでしょうね。
この、今起きている事象、目前の事ばかりでなく、少し先を見越して行動を選んでゆくことは実はそんなに難しい事ではないのです。
未来をみつめて生きることは自転車に乗る事にも似ています、仮にあなたが自転車に乗って道を進んでいるとしましょうか、
走っているその瞬間は車輪が大地を践んでいるその場所かもしれません、これが「今」です。
ですが自転車を漕いでいる私達は、その道の平坦な部分や邪魔となりそうなもの、通りすぎる人々、道をまたぎる犬や猫、
これらに注意しながら自分の進む先をみつめて自転車を漕いでいるにちがいありません。
私達は自転車という、乗るならば注意が必要な乗り物に乗る時は、数十メートル先という未来をしっかりと見越して自転車を漕いでいる。
これが先も見越して進むと云うことなのです。
そう、自転車の進むその先は今でなく「未来」なのです。 数メートル先や数十メートル先といったものは、
目をよく凝らして見つめるならばはっきりと迫ってくる未来。
私達はこの人生という世界を、この身体に宿って必死にペダルを漕いでいるのです。

 最近は風潮としてか、今こそが一番大事だと叫ばれる人々がいます、それは正しい事です、
でもそれは、すべてを見つめてではなく局所的な正しさと言えます。
今というものはいつの時代も大切なもの、そしてこれからやってくる未来とは、いずれ必ずやってくる「今」なのです。
言い換えるなら未来は沢山やってくる「今」なのです。
そしてこれが肝心なのですが、十歩先の未来は放っておいても素晴らしいと期待してはいけないのです、種は植えなければ芽がでることはありません。
今というこの瞬間が大事な人ならば、その一歩先も十歩先も大切にしなければいけないのです、
何しろ未来は私達の手で、このたった「今」以上にも、素晴らしいものとすることができるのですから。


 では私達はいかにしてこの世界を、持って生まれた心と体という自転車で進んだらよいのでしょうか。
すべての魂には進化の段階というものがありますが、これは私達人間という種の中にも細かな無数のステージがあります。
私達人間という種のその多くはこの地上に生まれて、時に嬉しいことや喜び、そして時に悲しみや不幸を味わいます、
これはそれらの幸不幸を味わうのは、本当はそのステージに添った必要なことではあるのです。
悲しみや苦しみは、そこから脱して愛と幸福を求めるための刺激としてあるからです。
人は意志によって行動をし、時に悲しみを味わい、時に自分の行動のあやまちに気づいて後悔をすることのできる優れた種なのです。
人間以前のステージに生きる種にはこれら自分の行動の結果を後悔するという概念はほぼありません、
後悔することは人間というステージにまで至った優れた魂の、いわば進化して勝ち取ってきた学習であり、
人がより精神的に進化し、また益々聡明になってゆくにも不可欠なステージなのです。
こうして人は後悔する事によって反省をし、悲しみや苦を避けてより良い結果を求めるようにと自分の行動を思慮をもって慎重に選んでゆく事を学んでゆきます。
ですから、後悔というものは人間という種にとって、それまでの種のステージにはなかった愛と幸福に向かうための一種の起爆剤のようなものであり、
人間というステージまでみずから励んで登ってきた魂の新たな特権と言えます。
しかしこれはあくまでも途中のステージでしかありません、人間という段階に生きる私達には無数のステージがあり、
最上かそれに近いステージでは愛と幸福はあっても苦悩や悲しみはないのです。
この最上や最上に近いステージを人間が一代で達する事は誰しもが可能です。
この段階では人々大勢に愛され、自身も大勢の人々を愛しています。
日々が自分の放つ愛と無上の幸福状態に包まれて生きているので不幸や悲しみ、苦が近寄れないのです。
愛なく思慮なく行動をした結果である苦はその人に触れることもかすることもできません。
後悔するという人間の知による特性は、いわばある段階までの一種の人の先生なのです。
しかし私達が自身の愛を大きく伸ばし、聡明に思慮をもって行動を選んでゆくようになってゆくと、
後悔の元となる苦しみから離れてゆく事ができるようになり、
結果それまでの途中のステージに居た人の導き手であった後悔は、もうその人の先生ではなくなるのです。

人間がこうした悲しみや苦しみから離れて愛と幸福を選んでゆくには意志という行動に聡明さと思慮がなくてはなりません、
それまでの先生であった後悔から学び取ったものには行動を慎重に選ぶというものがあります。
行動を選んでゆく。 これは目前にとらわれることなく、自分の行動の結果である、先々に起こることを見通して行動を選んでゆく事です。
それまでの目前にとらわれて生きるステージから、行動という原因と数歩先にやってくるその結果、
いわば今と未来を連続体のように捉えて生きるステージ。 この時人は失敗して後悔から学ぶ必要性はなくなっています。
人はこの時すでに一段上の段階に進化しているのです。 すべての行動は思慮よく愛に基づいて聡明に行ってゆくようになるので最善な行動を選んでゆくようになるからです。
人間は魂が進化をしてゆくと、先を見通して原因と結果の法則を取り入れてゆくので苦を招くものを自然さけるようになり、
その行動は自然と身に還る愛を基としたものとなり、愛と幸福に包まれた生涯を送るようになるのです。
進化した人にとっては、愛と、原因とその結果である因果の法則が新しい導き手となるのです。
それは原因とその起こる結果を見通して因果の法則を自分の先生とする人です。

■ 未来を見通す瞳をもって、望む未来に、私達は誰もが進むことができるのです。
■ イエスの言葉には、「明日を思い煩うな」という言葉があります。
現代では今こそが大事であると叫ばれる時にこの言葉を引き合いにされる人もいるようですが、
当時の「明日を思い煩うな」は、現代のより正確な意味に訳すなら、「起きてもいない心配事で思い悩むな」になるのです。
イエスのこの「明日を思い煩うな」という言葉を聞いた民衆は、どうして明日を考えずにいられるだろうと反発をしました、
これは当時の、収穫の心配や病気の心配、商売の様子、様々な事を心配する人々に、
まだ起きてもいない心配事で心を悩ます必要はないと教えていたのです。
しかしこれは決して明日を忘れて目前のことだけを楽しめではないですし、明日を忘れ明日の自分の準備を怠れと勧めているのでもないのです。
もしあなたが今日という今が大切ならば、明日やってくる今もより良い日となるように。
■ 後悔はある段階における人の先生です、後悔をしない人には2種類あります。
ひとつは行動に思慮と聡明さがまったくなく、行いが粗暴な人。 後述をします人間の精神性を表した「利己利他4分類」では
「利己」になります。 後悔を自分の先生とすることがまだできないステージです。
そしてもうひとつが原因と結果である因果の法則を取り入れて先々を見通して行動を選んでゆくようになった時に後悔を必要としなくなるステージ。 「利他」になります。
同じ後悔をしないという点ではちがいはありませんが、その人の人生はまったくちがうものになります。
この場合の後悔を必要としない人の新たな先生は最善となる行動を選んでゆくように指導する因果の法則が取って代わっています。
□ 愛と幸福で包まれた人の人生の導き手は因果の法則です。





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アセンションまで残りわずかな時間を過ごす最良の生き方 大いなるカルマと「未来予測」

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 アセンションまで残りわずかな時間を過ごす最良の生き方 大いなるカルマと「未来予測」

 私たちにはもう時間はあまり残されていません。
その残りわずかな時間をどうすごしたらよいのか、
そのためにこの古い原稿をここに挙げます。
  
 今日は過去記事のピックアップです。
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 【 マクロなる因果 】

 本文では趣旨からはずれるように思われるので詳しくは触れませんでしたが、実は個におけるミクロなる因果が見えてくると、
集団や民族、その時代に生きる者たちに共通するマクロなる因果と云うものがあることに気づきます。
因果の冒頭でお話ししたように、この本書を読まれている方は偶然ではなく必然の縁によって読んでいるのだとお話しました。
しかしあなたはこう考えているかもしれない、
大勢の人々にはこの本書に目が触れたのは因果があって読み進めている者もいるかもしれないが、
大多数の中の一人にしかすぎない私は単なる偶然だとあなたは思われているかもしれません。
偶然というものは実はありません。
そうでなくこれがそこに生きる人々の集団と時代の因果なのです。
民族や地域、時代、こういった中にも人々のマクロなる因果があると言い換えればよいでしょうか。
西洋の中世における異端尋問や魔女狩りといったものや、日本の戦国時代といった時代的な中における人々の因果もそうですし、
現代の都会や地方といった出身地の違いといった生活環境からくる価値観や成長の仕方と云ったものまでも含む、
大きな枠の中で私たちは自らが放ってきた原因と結果の法則である因果に従って生まれてきているのです。
 日本においては戦前、男尊女卑であったのはその時代における因果があって、卑しいとされる者と尊ぶべきである性別とがあるという
現代では考えられない価値観がまかり通っていました。
これらのそれぞれの身に自分を置いて生きねばならなかった人々と云うのは、
それぞれの持つ因果を集団で顕して清算する機会としてその時代に生まれたのだと因果は教えてくれます。
日本においてこの男尊女卑の集団的、民族的な因果は、この時代に生きた大勢の人たちの清算によって解消されました。
現代では考えられない思想や人々の価値観、習慣、行いといったものや、あらゆる時代における人々の幸不幸、
飢饉や自然災害、これらはそれらを経験し、自らが撒いた因を清算する為に顕れているということです。
 ではなぜ因果によって私たちは個別なものや集団的な因果を持つに至ったのでしょうか、
これはさかのぼって考えて行くと万物創世にまで行き着くように思われます、
人間、いえ、すべての魂というものは神に似せて創られたと古代より言い伝えられてきていますが、
その中でこの件に関して一際関心を惹かれる興味深い話があります、
それは神に似せて創られた私たち魂の愚行の説明に成り得るものです。
私たちすべての魂は神に似せて創られた、しかし誰もが神と同じように個性として「行う自由なる意志も与えられた」と。
意志、行うという事、これこそが原因と結果である因果そのものであります。
ゲルク派のチベット死者の書には、人間が少しずつ輝く者から自己の意思、
因果と云う行為によって堕落していった様が描かれていますが、
因果を撒いて自ら摘む者となる更に以前にも同じように意志を行っていた私たちがあると考えられます、
この転生の繰り返しはやがて何色にも混ぜ合わせた絵の具のように同じ傾向の人々がそれらを清算する機会として地上にやってくる、
私たちの全ては自分の意志と行いによる果という、他に向ける事のできない個々の責任があるのです。
さて、話は現代のこのたった今に戻しましょう、時代と多くの人々の集団的潜在的な因果というものは発芽する為の土壌が必要となります。
今この本書を多くの人々が触れて読む機会というものは、我々の集団的な因果の発芽すべき土壌と時期とが揃って顕れたのだと言えるのです。
それは私たち現代に生きる者にとって、これまでの世界中における様々な貧困や戦争といったものから抜け出たいと痛切に多くの人々が抱いてきた果がやってきたからだと言えるものだからです。
こういった貧困や戦争から生まれる人々の願いという因果、因となるものが人々の心に顕れ、
それらが一つの果の顕れとして愛を著そうとする書物という形を因果はとる場合があるのです。
それはある時は訴えであり潜在的な共鳴者を眠りから覚ます引き金かもしれません。
そして実を言えばもしも著者である私がこの世に生まれていなかったとしても、この果はこの世界に顕されていたと考えられます。
私でなくてもよいのです、例えば私が今日死んだとしましょう、この世に具現化せずにおれない果はそれでも必ず顕れます、
私以外の誰かが必ずその顕れるべき因果の果を意識無意識に関わらず顕そうとするようになるのです。
これらマクロなる因果は、まずミクロなる個々における因果を理解せねば見えてこない理解に苦しむ因果かもしれません。
著者である私がこれらを書くなり書いたものをこの地上で顕すなりといった事は、私でなくともよいと申し上げたように、
必ず因のある顕れざるおえない果を果たそうとする者がこの今を生きるこの地上に現れますから実を言えば私はいつ死んでしまっても構わないのです。
無論私自身の徳行として捉えるならこれら人々に愛といったものに目を向けてもらい、
一人でも多くの人々が愛と幸福で誰もが幸せに暮らしてゆくお手伝いができるならばそれらは私の個としての徳でもあり喜びかもしれません。
そしてもしもまだ生かされて生きることが許されるならそれらを続けてゆくことでしょう、
しかし私は私がもし死のうとも必ずこれらを為そうとする者が現れる事を因果によって理解しています、
ですから私はいつ死んでしまおうと後悔なく生まれてこれてよかったと満足してこの世を去る事ができるにちがいありません。
さて、私がいつ死ぬ死なないという縁起でもない話はこの辺で終わりにしまして、
現代において世界中のあちらこちらで人々の心の変革のひとつとして愛を強く求めるという風潮、この今現在の因は果として今後どのように結ぶでしょうか?
未来において誰もが互いを支えあい、助け合う、愛に基づく生き方が普遍化する時代が現在の因によってやってくることでしょう。
その時、今この現在における利己主義の蔓延した世界の基本的な価値観といったものは、
今現在の我々にとって過去の遺物である男尊女卑のように前時代的なものなのだと誰もが疑わずに考える時代がやってくると云えます。
そのような時代がやってきた時には私もその時代を愛する者と共に生きてみたいものです。
さて、果というものは因がなければ生じませんし、十分な土壌も必要です、
これら理想郷のような時代が遅かれ早かれやってくることはマクロなる因果を見通して見えてくるものではありますが、
しかしそれらは一人一人がそれら愛に基づいた心と行動を示して行かねば花が咲くのもいつになるやらわかりません。
もし今これを読まれているあなたが本書を頼りに愛と幸福を掴んだなら、
愛に基づく心や生き方といったものが私達人間にとってもっとも必要なものなのだと痛感される事と思います、
そうやって求めてやまなかった自分自身の愛と幸福をつかんだなら、身をもって行い自身に掴んだように、
触れる人々や出会う人々にそれ以降も愛と善意をもって生きる事をあなたに望みます、
それこそが私たちが真に望む誰もが愛し合い支えあう世界に進む為に必要となるものなのですから。
2002/1/13 愛上王




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 この記事は「上を向いて歩こう」の中でも巻末部分にあたり、
巻末部分のほとんどは、私はいつ死んでも後悔をしないようにと、
遺言の意味も兼ねて記しました。
そういう気持ちにでもならないと、恥ずかしくて書けないものって、あるんですよ。

というわけでして、この記事には当時、自分としましては、とても大事なエッセンスを詰め込んだつもりで書きました。
今現在、私たちにはもうあまり時間は残されてはいないかもしれません、
ですが、もし、私たちが次世代の人類として生き残るのなら、
それは、「誰もが互いを支えあい、助け合う、愛に基づいた生き方を当たり前とするようになった時、
その時こそ私たちは進化をし、新しい世界を迎えられるのだと信じています。」


 私の記事で何かしらよいものがあると思われる方、
どうぞよろしくお願いをします。

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