因果によって未来を変え、未来を創る

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 【 因果によって未来を変え、未来を創る 】

 因果の章の締めくくりとして。
 サンスクリット語でカルマ、因果と輪廻思想は切り離せません。
行いの結果は必ず顕れる場を必要とします、もし死んですべてがおしまいになってしまうなら果はどこで顕れるのでしょう?
古今東西において、どの宗教の教祖、それは仏陀やイエスも含み、聖者と呼ばれてきた者達すべてがこの因果を説いています。
例えば聖書の中には、因果の法則を説いていると思われるものにこのような言葉があります。
「良い木には良い実を結び、悪い木には悪い実を結ぶ。」(マタイ伝 7.17)
聖典や仏典にみられるこれらの言葉は、
一見直接的な表現をしていないようにみられる場合もありますが、
それらは受け手側の解釈に問題があるにすぎなく、
(注、人間の都合によってしばしば曲解されたり削除されていることがあります。)
愛を説いてきた世の指導者は例外なく因果と輪廻転生を説いています。 そして輪廻思想を説く指導者は因果をも説いていると言え、
それは輪廻という思想なくして因果という法則も成り立たたず、因果がなければ輪廻の意味も見つからなくなるからと言えばよいでしょう。
もし今生きてるこの世でまいた因果が生きてる内に清算仕切れないとしたなら一体いつそれらを清算するのでしょう?
果たせなかった残りすべては次の生に持ち越されてその果が顕れると考えるのが最も自然ではないでしょうか?
生まれ変わり、いわゆる輪廻転生を信じている人たちとは、言わば因果を信じているのだと言っていい、
ただ私たちは普段それらを意識的に考えていないだけにすぎません。
溢れるほどにそれら身に還る因果を積んだなら、還りきらない程の残りは今生生きて享受したのと同じように来世においてその因果に
相応しい環境が自分に還ってくると考えるのは自然な事と言えるでしょう。
ここでは過去世の因や、今生に限らないで来世以降にも因果は引き継がれてゆくという輪廻思想を引き合いにはしましたが、
これら輪廻思想その物は本書の大筋からは外れますので多くは触れません。
しかし「因果という法則」その物は、私達がいま生きているあいだにおいてですらどのようにも活用できるもの。
人は「自分がまいてゆく因果によって生活のすべてがどのようにも可能」となるのです。
 本書でこのようなことを述べるのはいささか戸惑いを感じるのですが、
多くの宗教の中にみられる輪廻や因果といったものを宗教独自のものとして捉えずに、
歴然とした法則としてその事実を日常で生かしてはどうかと考えるのです。
私達が生まれていようと生まれていまいと空は青く地球は丸い、
因果を説く宗教が存在していなかったとしてもやはりそこに因果という法則は依然として存在するのです。
世の正統な科学者は今や誰一人と偶然はなく、すべては原因があって結果があると認めています、
これは現代科学の基本になっているものです。

私達の知る中でも最高峰の科学者として知られるアインシュタインも同じ事を言っています、
アインシュタインは偶然というものを決して認めませんでした。
私達日本人は、因果と聴けば因果応報、お寺やお坊さんの説教を思い浮かべるほど仏教に根付いたものと感じがちですが、
実際はこの地球の歴史上、私達の目の届く有史始まって以来、
「因果という法則」を明確に人々に提唱してきたものはおそらくインドにその源流があるヒンズー哲学(大まかに六つに分かれているそうです)
であろうと考えられます。 日本では仏教として明確にわけてしまっていますが、
発祥地であるインドでは、ヒンズー思想の中から生まれた仏教として、いわば分派として今でも捉えられているのだそうです。
少し横道にそれましたが、これら宗教的、精神的なものの中で捉えられて提言されてきた法則である因果は、
単に宗教的な霊性のものとして扱われるだけでなく、20世紀以降の科学者の手によって科学的認証という一致を迎えたのです。
 因果を説明する上で誤解を招きがちなものに運命論的に捉える向きがありますが、
すべては前もって決められており、その中で因と果が顕れると。
そうでなく、「私達の意志という因」によって顕れる結果の連続体が果であり、日常で表れるすべてとなるのです。
だからこそ未来は自身の手によって変える事も創る事もできるのです。
これまで本書を読み進めてこられた方の中には、今身に起きている果が、一体いつどんなときに自分で撒いた因なのかを洞察によって
見極められておられる方も大勢いると思います、
なら、どんな因を行えばどんな果がそこに結果として顕れるかを見越して行ってゆくのは容易になります。
ですから宗教概念の中に見受けられがちなものとして片づけてしまわずに、より良く私達の人生に生かせるものとして捉えてほしいのです。
 因果を上手に活用してゆくことは「因果は幸福を選べる地図」でお話したように、私達の人生を豊かで実りあるものとしてゆく未来をすでに手に入れたも同然なのです。
因果という地図を知らなかったこれまでとは違い、自分の足でどのような道にも歩むことができ、
それらを実際に叶えてゆくことは因果を知らずにいた以前よりも断然たやすい。
それはこういう事かもしれません、私達は流れてゆく時間の中の一点の断面に視点をあてて普段日常を暮らしています、
しかし物事の因果がみえはじめだすと、今までの視点がとても不思議に思えてくるようになります、
今という断面にばかり捕らわれて流れの次の断面、明日、もしくはずっと後にやってくる時間の先に視点をあてて
予測や予防をせずにいたのが不思議に感じ始めるようになるのです。
もっと具体的なたとえをしましょう、例えばここにみかんがあります、私達はそれを手のひらで掴んで握り潰すとします、
どうなるでしょう?思い切り力を込めて握るならみかんは行為の結果通りにつぶれてしまうでしょう。
流れの中で因果を知らぬまま力を込めて握ること、すなわち因を撒くことは、その結果である果をまったく想像すらせずに握りつぶすという行為に似ています。
私達はみかんを掴み、力を込めて握ればつぶれるのだと因の結果がみえてくる、
しかし日常ではみかんを力をこめて握ってみたい、その先はどうなるか予測もしないしどうなるかは意識から追いやったまま、
まず今の欲求を為すという目の前の事にのみ意識が捕らわれた状態でいるのです。
握りつぶせば結果としてみかんは潰れて手が汚れてしまいます。
私達は因果を真に理解したとき、流れゆく時間の一点、今という断面のみに視点をあてるのではなくて、
今と未来という流れそのものを捉える事ができるようになり、望む未来を創ることもできるのです。

■ どんな因を行えばどんな果が顕れるかを見通せて初めて「真に因果という地図を使いこなせている」と言えます。
■ 因を選んで行うなら果も相応しく望んだものを得られます。 未来はより良く変えることができ、より良い未来を私達は創れるのです。


 現代人の魂における精神ステージは、みかんを握れば潰れて手が汚れるだろうとは予測せずに、
まず目の前の欲求である握りつぶすことに視点をあてた状態と云えますが、
徐々にではありますがその目前の欲求の先に起こる結果に注意を払い始めた段階にいると云えます。
これらは例をあげますと、人類がフロンガスを使い続けるならばオゾン層が破壊され、人類は勿論、生態系に大打撃を与え、
いずれは死滅するという結果を予測し、フロンガスの使用を全廃するようになりました。
こうして目前の利益に捕らわれずに後の果を考慮しながら生きる精神ステージに人間は徐々にではありますが着実に進化しており、
精神的視野も大きくひらいていっているのです。

 キリスト教では輪廻の思想は聖書のどこにも書いていないではないかと訝しがる方もおられるかもしれません、
しかし実は書いてあったのです、西暦553年にコンスタンチノーブルで行われた一般にニカイア会議と呼ばれる宗教会議の時に
私たち人間の都合によって聖書から輪廻思想を削ってしまったのです。
それらは時の権力者の圧力と教会の都合によるものと云われています、
時の権力者にとっては動物や召使いに生まれ変わるなど認めたくもない事であって、
因果によって次の生は今とは反対の立場、人々に奉仕する立場に生まれ変わる可能性など受け入れたくもなかったからです。
これらの人たちと現代の因果を否定する人々とはなんと多くその意識が共通することでしょう。
 ニカイア会議において聖書から輪廻思想を削除したというこの事実をみつめると、
私たち人間が常に聖書や他のあらゆる宗教の指導者の言葉、教義、これらを曲解してきたと云うことは疑う余地のない事でしょう、
どの宗教においても愛し合えと説いているにも関わらず私たち人間は戦争をする、どの宗教も決して争え、殺せとは教えてはいない。
意味する所は決して変わりはしないのにそれを曲解してどの宗教も後ろ盾に利用され、聖戦とやらが権力者の手によってはじまる。





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