■愛という言葉を口にださない■

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 ■愛という言葉を口にださない■
 
「上を向いて歩こう 第三部12章続編」

 意外に思われる方もいると思いますが、
私は普段、「愛」という言葉を日常生活の中で使うことはまずありません。

私がなにより心配している、恐れているものは、
「上を向いて歩こう」を読まれた方が万が一にも、
それら「愛という言葉を日常で必要以上に口にしたり、」
「自分は愛ある行いをしている、だの、気づきがまだの人たちよりも優れている。」
だのといった感情を持ち、
とても大きなエゴの落とし穴にはまってしまう事なんです。

私自身は筆を進める上で、「愛」を主題にしたものを書いています。
だから私が文中でことさらに、「愛」を書くのは問題ではないんです。 これは立場上の問題ですから。
そうでなく、人は何かを学びゆく課程で、100回読んだ程度で、
あくまでも文を読む機会に恵まれたというたったそれだけで、
自分に値打ちをつけたがるものなんです。
たとえば「上を向いて歩こう」の中では、「愛と善意で生きるならどんな分野でも一流になる」
といったものを書きましたが、これをもし読者が読み、
自分もそれに倣い、損得を忘れて同僚や上司や部下の仕事を手伝ったとしましょうか。
そこで大事なのは、周囲に対して自分を良い人物として捉えてほしいとか、
自分は一段値打ちのある、「愛のある」、魂なり精神が一歩進んだ存在であるから、
こうした事ができるのだという気持ちを持たれてしまう事。

本来、「損得」を抜きにして、それが上司であろうが同僚であろうが部下であろうと、
はたまた掃除のおばちゃんのお手伝いをする事であろうと、
みんなにお茶やコーヒーを黙って入れてあげる事であろうと、
どんなことであれ、他者に益となり、喜んでもらいたいが為になされる事は、
こうした自分のエゴを満たすためにあるわけではないと言う事。
周囲や他者が少しでも楽になり、喜んでもらえるならそれでよい。
ただそれだけの「想い」でなければならないのです。
ここでは「想い」という言葉を使いましたが、もっと判りやすく言うならば、
それは「動機」です。
私は第二部以降で、「正見」について書きました。
正しく見ると書いて正見。
もし、ものごとを正しくみるなら、お手伝いをしたり他者を助けるとは、
まさしく読んで字のごとく、そのままありのままであるべきなんです。
もしそこに、人を助けたりする行いをすれば、自分が人から良くみられるだろうとか、
自分はこんなにも魂に値打ちがあるから立派な事が平気でできるのだとかいった、
「エゴを満たすためにあるのなら、まさに本末転倒と言うほかはありません。」
「正見」とは、何が正しさの基準となるのか、これは遠いいにしえから人々の間で議論をされ続け、
未だ誰もその答えをこれだと明示してきた者はいないのだと聞いています。(それは正見が仏教より生まれて以来数世紀。)
だからこそ、「正見」の真の基準がこれまでどんな書物にも記されてはこなかった。
私は、「正見」の基準とは「愛」そのものなのだと記しました。(「上を向いて歩こう」内ですでに私が記しています。)
もし、誰かが何かを行い、エゴを満たそうとするなら、
それは決して「愛」ではありません。
もし、誰かが私の書いたものを読み、
そうやって自我の中にあるエゴを満たすのを動機として、行いや精神を真似るのなら、
それらの行いや学びは、自分自身を純粋なる「愛」に近づけるのではなく、
自分からエゴという、自分を縛り付ける泥沼に嵌まってゆこうとしているのと変わりがありません。

なぜ私が今になってこれらに触れるのか?
それは昨今のスピブームにあります。
私のこれまで書いてきたものは、巷のスピブームよりも遥か以前から書き続けてきたものですが、(13年前。)
盗作をされた方が私の文を先に世に浸透をさせ、(今では有名な方です。)
私の知らぬ間に、人は私のこれまでの文を勝手にスピと呼ぶ者まで出てきた。
しかしまあ今回はそれらは置いておきましょうか、
本題に戻りますが、
それら巷のスピブームに乗せられている方々を見つめてきて分かった事なんですが、
スピを学んだり実践をしている気でおられる方ほど、
それらスピなり精神性の向上といったものを、自我を満たすための道具にされてしまっている方が大変に多く、目に余るのです。
やれ「学び」が足りないからだの、「気づき」がまだだからだのと、
(これを巷のスピラーは私に向かって言う。 今のスピブームの根元となる文を盗作という不本意な形であれ、
浸透させた本人に向かって。 もちろん日常生活では愛上王という名は出してはいないのですが。)

人を貶め、自分を一枚値打ちが上がった人物かの様に振舞われる方が増えすぎたのです。

そしてもし、人がスピなり精神性や魂の向上、こういった知識や思想に触れ、
実際は払い落としてゆくべきこれらのエゴを満たす道具にしてしまっているなら、
それらに触れなかった方がよほどよい人生が待っていたはずなのです。

だから言いましょう、
私たちが何かを学び、吸収し、精神的にも霊性としても、高めてゆく気があるのなら、
「それらは遊びではありません。」
ここでは少し極端な事を言わせて頂きますが、
はじめから触れずに学ばないか、もしくは徹底して学び実践し、極めてゆくか、
そのどちらかであるべきです。
中途半端ではいけません。
ちょっと実践してる位の気持ちでは、自我に巣食うエゴが、それらすら玩具にしてしまうからです。

2009/7/7 著作 愛上王



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