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強い愛情にする法 序 2009/7/31

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 強い愛情にする法 序 2009/7/31
まずは前フリとして、2002年8月22日の楽屋裏日記から抜粋。
http://www.osk.3web.ne.jp/~lovenet/love/sitagokoro/index.html

今日は忙しいので前フリだけです;;
時間が取れたらこの続きを書きますので。


******* 抜粋開始 ***********************

今日は以前少し書いた駆け引き部分について触れようかと思います。

つきあいはじめた彼氏や彼女の気持ちを自分に強く惹きつけて、更なる「強い愛情にする法」をここに。
およよ!?  いつもと様子がおかしいですね?
これら駆け引き的なモノは相手や人々を利己心の瞳で見つめてしまう心に拍車をかけてしまいかねないモノとして近頃の私は忌み嫌っていたはずです。
ひとまずそれは置いておき、進めましょう。

つきあいはじめて相手が自分に信頼を置き、強い愛情を自分に向けていると察した時に、
  「 いつ別れてもいい 嫌いになったなら遠慮せずいつでも言ってくれ」 と相手に告げる。
これは別れたいが為に言うのではなく、相手の重荷になりたくないが為に日常で私が相手に発していた言葉でした。
愛する人が私を嫌いになったり、他にもっとその人を大切にする人が現れたならいつでも身を退こう、そう考えていたのです。
お恥ずかしい話ですが、私はいつも、誰とつきあう時でも、相手にとって最良の人間だとは考えていなかったのでした。
知らぬ顔して平然と浮気はする、つきあってはいつつも大切にはできない、そんな自分が嫌われたなら潔くいつでも身を退くべきだ、そう考えていたのです。
私の心情としては確かにこれらがあった、しかし、「 いつ別れてもいい 嫌いになったなら遠慮せずいつでも言ってくれ」
この言葉は、実際は思わぬ方向に向かう事がほとんどでした。
強い愛情を向けてきている相手にいつ別れてもよいのだと告げると、その人の強い愛情は相手を失いたくないという気持ちが増大するようなのです。
これは、つきあいはじめの頃のまだ低い愛情段階で告げていたとしたならば、冷静にその言葉を聞き納めておいて、
いつか相手を嫌いになった時にはその言葉通りに別れを持ちかけてくるかもしれない、発した言葉通りに。

 私が向けた言葉は言葉通りの心情でしたが、しかしもしもそうでなく、今読者がこれを読み、テクとして相手の心をあやつるかのごとくこれらの言葉を向けるなら-------
これこそが罪だと考える。
自分の本心から芽生えた相手に対する思いやりの気持ちからそれらの言葉を向けるのではなく、
さも自分の心からの心情であるかのように振る舞い演技をする、
相手にさも良い人のように受け止めてもらいつつ、人をウソで縛りつける。
相手はウソの言葉で踊らされ、その人に現れたかもしれないもっと相応しい人との縁を塞いでしまう。
ここで自分がその相手にとってもっとも相応しいなど考えてはいけないのです、
人の書いた(私の書いた)小手先のテクニックを駆使し、自分の思惑通りに事を運ぼうとする自分などよりも真に相手を愛し、
幸せとする者は当然他にいるのが自明の理だからなのです。

いや、しかしその人を愛していればこそ、それらも必要悪のようなものではないだろうかとお考えになられる方もおるやもしれない、
しかしこれこそがその人を真に愛しているかの境界線と言えるものなのです。
どんな手段であれ、手に入れるためならよいではないか、それは恋愛につきもののいわばプロセスのようなものであって、
騙しあいや化かしあいもあってこそ恋愛というものじゃないかと云われるむきもあるだろう。
勿論それらはあるでしょう、しかしそれこそが境界線であって、
今までの恋愛の視点観点から抜け出た先にあるもっと確かな確固としたそれまでは掴む事のできなかった愛の状態には互いに進むことができない。
言わば不満と一時の満足、そして失望、これらを繰り返してきたそれまでの恋愛から抜け出ることのないパラドックスと呼べるもの。
初期段階とも言える恋愛の内はまだよいかもしれないが、それが互いに支え合って長く過ごしてゆく婚姻関係になったとしたらば
それら騙しあいや化かしあいも互いの愛のプロセスだ等とは誰もが云わないことだろう。 それらは亀裂の種でしかないことをその時誰もが理解しているからだ。
ここでこれを読まれている読者に思い返してみて欲しい事があります、
今まで過去にお付き合いしていた異性や、恋焦がれていた異性の一人や二人は居た事と思います、
その異性とは結局は過去の出来事として今日に至っていると。
どんな手段であれ、それが利己心に根付くものであろうとも手段を選ばない、こういった入り口から入ってゆくものはそれらに相応しいプロセスと終末しか残されていないのです。
もう時代は人やら他人、異性をどうやって思いのままにするか、こういったことではなくて、互いが上に昇ってゆく、より一層上の愛の状態を人は求める時期に来ているのです。
やれ口説くテクニックは相手がああしてきたならこうしなさいとか、こう振舞ってみてはどうかといった、いわば知的ゲームで終わらせてしまうステージから人間は脱却していかなくちゃいけない。
互いの、それこそが愛する相手への、そして自分自身にとってもそれらが必要な時期に来ているのです。

さてどうでしょうか、駆け引き的なモノを書き進めてゆくことは本書の主旨とは大きくずれるモノなのだとお解り頂けた事と思います。
そして、この話には実はまだ続きを書かねばならない。 あれはだめだこれはだめだじゃ一体どうしたらいいの! キィー などと雄叫びが聞こえてくるからです (^^;

この話の続きのタイトルは・・・
「求める人を射止める方法」

以前に第一部で人は類友に惹かれて集まるものだとお話ししたと思います。
今から書き進める物はこの類友に大変に似通った部分がありますが、
しかしより厳密にいうならばそれは二部でお話をしました利己利他4分類で説明した方がより具体的なものになるかと思われます。
類友という概念に似て非なるこれらは意識というステージの、親近性による人々の結びつき、と言えるかもしれません。

 仮に求めている者が心の底から優しい人だとしましょうか、その求める心情は強い欲求となって現実に私達の前にその望んでいた通りの人が現れます。
これは実際にそのような人と出会えるという意味です。
私達は成りたいと想い描いた人物に自然成る(第一部参照)のと同じように、環境も人間関係も恋人もすべて、心で想い描いた通りになるのです。
言うなれば、私達は自身で理解し、自身の内奥に事実あるものを求め、またその通り現実化していると言えばよいでしょう。
この喩えでは少々解するのが面倒かもしれません、別の喩えでお話しましょう。
私達が出会い求める恋人に、心底心の優しい人を求めたとしましょう、私達は願ったとおりそういう人と出会えるのです。
これはその心底優しい人を求めた事そのものがその人の中にその時実際に内在しているものだからなのです。
「欲したものはすべて、実はその人の中に必ず内在しているのです」
これは一見辻褄が合わないように見える事もしばしばあります、優しい人を求めつつも、求めてやまないその人自身は、その求める通りの優しいものを
有してはいないように見えると。 ハッキリ言ってしまえば冷たくワガママな人のように見えると。 しかし外側に優しさを求めた以上は表だって発揮はしてはおらずとも必ず内在しています。
(優しさを内在はしているがそれを人に向けないで自分が欲する一方な状態は「利己利他4分類」に当てはめるならば利己中心になります。 いわば利他の芽を内在させたまま利己中心であると。)
 たとえば優しくない人がいたとします、その人は自己の中に内在してはいない優しい部分を、人に求めたりは実はしないのです。
(仮に冷酷な殺人鬼がいたとしましょう、彼は外側、いわば人に優しさを求めません、利己的な従属は人に求めるかもしれませんが優しさを人に求めているわけではないのです)
これは言葉に語弊があるかもしれませんね、しかしお読みになられて憤慨するのはチョット待った! なのです
ある人が優しい人を求めたとしましょう、 事実その人は外側に求めた通りのモノ、その優しさを自己の中にも必ず「有」しているのです。
さて、長くなりました、では肝心な部分を続けましょう。
自己に内在している求めたとおりのその「心底心の優しい人」と出会えたならば、その人の心を射止めて自分の恋人にしたい事でしょうね、
ではどうしたらよいか?
内在したままでなく実際にその求めるもの通りに外側に向ける事、なんです。
それはその求めた優しい人に相応しく、自身が求めてやまないものは人に向ける。
内在したままで発揮をせねば出会っただけで終わってしまいますからね。
幾度か本文でも述べてきたことですが、
「私達がそのようならそのような出会いと結びつきがある、
私達がそのように振る舞うならそのように得られる。」
これは本文で述べてきた因果の法則でもありますし、
得るために相応のものを与えよと第三部でもお話しました金銭の項をお暇なときに今一度読みなおして欲しく思いますが、
これはいわば求めた通りのものを確実に得るための法則であり、因果の法則の分則とでも呼べる配給の法則と言えるものになります。

むずかしく並べてしまいましたが、簡単に言ってしまうなら、
優しい人を恋人に求めた人は、実はその求めている優しさは日常で普段発揮されてはいないかもしれませんが、
必ず外に求めたものは自己の中にもあり、
自己が宿しているものであるからこそその価値を認め、外側にも求める。
求めたものは求める欲求の強さ通りに私達の外的環境に必ず顕れる。
欲求の強さは求めてやまないものを実際に発揮している場合はより強くなり、出会うだけでなく心を射止めて恋人にすることに成功する。

もっとわかりやすく簡単に言ってしまうなら、
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ある人が優しい人を恋人に求めたとします、
求めた人は実はその通りに実は内面に優しさが溢れているのです、
だからその通りの人と出会えるし、自己の持つ優しさを実際に外に発揮出来ている場合には出会うだけでなくその人をモノにすることにも成功すると。

これを読まれているあなたが童話や昔話に出てくるような心清く誰にでも分け隔てのない優しさを持つ王子様のようだったとしましょう、
その王子様にはそれに相応しく、心清らかで誰にでも分け隔てなく優しい美しい女性と出会い、結ばれるのです。

もしあなたに好きな人がいるならそのようにすることです、 実際に振る舞い、心もそのようにするのです、 「求めたモノに相応しく実際に行う」これだけなのです。
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自己と類似性、そして意識ステージが合うほど惹かれ合い、その者にとって相応しくあれば尚強く惹きあうのです。

異論はあるかもしれませんね、優しくはなくともそのような人を惹きつけている者も居ると。
これはかならず類似性のある共有部分に引きあってのことなのです。
ポジティブなものに限らずネガティブな部分においても人は引きあいます。
ヤクザはその自己が持つ質が相応しいからヤクザの世界に住み、同質の者達と普段引き合うのです。


******* 抜粋終了 ***********************


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