批判は他カラやってくる宝
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批判は他カラやってくる宝
なにやら最近の記事のコメントでは、インチキはだれだの、偽はだれだのいうのは批判だか非難なのだという意見もあるようです。
しかし被害者抑制は私のケジメですからね。
1/7の記事にて、私は以下のように記しました。
> まずは私がこれまでに書いてまいりましたものを、お暇な時間が取れた時で結構ですので隅々目を通されてみて欲しいのです。
> その上で、まずはこの私を懐疑して欲しいのです。
> そう、なんでもかんでも鵜呑みにするのではなく、
> もしも私の記事で突っ込みどころがあるようならぜひ突っ込んで欲しいのです。
> 矛盾はないか、話に整合性はあるのか?
> 愛上王という輩の姿勢はどうなのか?
> 突っ込みどころがあるようならぜひお願いをしたいのです。
> 私は、正当な筋の通ったものに限りますが、批判は歓迎なのですよ。
> 自分の背中は自分ではなかなかみれないもの。
> だからこそ隅々を読んで頂きたいのです。
しかし、他の記事にはコメントはつくのに、この該当記事にはなぜかコメがつきません・・・
正当なスジの通った、感情論ではない「理」に適う批判。
なぜこないんでしょうかね。
もし、感情論や偏った希望論、抽象論でなく、キチンとスジが通っているのなら、
「批判」というわかりやすい単語で表してはいますが、
これは驚く方もいるかもしれませんが、本当は「建設的な意見」なのですよ。
たとえば、以前に記事、「批判は宝」でもお話しましたが、
まずいラーメンをまずいと店主に教えてあげることすらも、本当は「建設的な意見」なのですよ。(本当にまずいラーメンでなければウソになりますがw)
しかしこれ、かなりの人は、なんてひどいことを言う客なんだろうと考え、終わらせてしまうかもしれません。
スジの通った批判を避けたがったりする人、
喜んで受け入れる人、
これには大きな違いが出てきます。
それは「批判は宝」に記した通りです。
さて、たとえばですが、この私に関する批判があったとしましょうか、(今後は出てくるかもしれませんね、感情論ではない、理にかなった、スジのあるものなら歓迎です。)
この私がこれからやろうとしていること、やること、これまでの記事、今後の記事、思想、こうした様々なものをみつめ、
もし幾ばくかでもこの私を信じ、ささやかながらも応援してくださる方々、
こうした方々が、もし私の批判を耳にしたのなら、
その批判に耳を傾けるななどとは言いません。
もし批判があるならよく耳を傾け、まずはじっくりと聞きましょうまで言うことでしょう。(そのようにしてくれる方は、すでに妄信さんではありません。姿勢ができてるわけですからね。)
もし批判があるのなら、
私たち人間のすることは、自分に愚かなミスがあるのなら、慌てふためいて誤魔化すことではないんです。
そう、その時はその批判をじっくりと聞いて欲しいのですよ。
その上で、その話に信憑性はあるのか?
矛盾はないか?整合性はあるのか?インチキ霊能者さんらが私を貶めたいがためにデッチあげてはいないか?
よくよく冷静に吟味はすべきですし、
しかしもしもそうでなく、この私に落ち度があっての、話にスジある批判であったならば、
こんなにありがたいことはありません。
この私が省みなければならない点をなんと親切に教えてくれるものなんですからね。
さてここでひとこと。
批判とは他カラやってくる宝であると。
さて、しかしそうでなく、批判を嫌がる方も世にはいる事と思いますが、
その批判にキチンとしたスジがもしあるのなら、それは自分のあらためてゆける点を受け入れないことになるわけですから、
それは大人の態度とは言えないでしょうね。
これは精神性進化の道しるべのひとつでもあるのです、
幼少のころはたしかに多くの人は受け入れたがりませんよね、
ところがですよ、段々と成長をしてゆくと、
親でも教師でも親方でも兄弟でもなんでもいいですが、
注意をすることがあると思います、受ける本人はただ批判をされているだけと思うこともあるでしょう、
しかしそれは決して憎くて言ってるわけではないですし、
本人もいつしかそれは、自分を憎くて言っているわけではないと知り、
自分が親になったときにはすっかりそれらを理解しています。
これは苦労をされてきた親御さんならよくわかる事と思います。
さて、一連の流れを見ていただいてわかると思いますが段階があるんです。
受け入れる段階にいる方は精神性や霊性進化など、先に進む準備ができている方なんですね。
それは学びであり、吸収であり、改めるべき点があるなら改めるという姿勢のできあがっている段階。
これは成長であり進化のスタートラインとも言えるものです。
こうなってくると、以前の記事のラーメン屋ではないですけど、大躍進すら可能になってくるんです。
私はこれらを戒と呼んでいます。(参照記事、http://firstdoor.jugem.jp/?eid=152)
スタートラインは皆、基本である 戒 から始まるんですよ。
戒を敷きつつ奨を行うと。
大人になってゆくと、苦いものも好きになる。
それにも似ていますね。
ピーマン食べれますか?
大好きですが^^;
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- 2011.01.12 Wednesday
- 言葉
- 01:00
- comments(6)
- trackbacks(1)
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- by 愛上王
今日の話は 自分も共感します。批判じゃなくて 単なる意見なのに、 自我がいろんな思考をつけて、あーでもないこーでもないと悪い方向に飛躍させますね。 だからブログランキングも単なる意見の集まりなんですけど、ランキング上位だといいものと自我が勝手に思いこむんです。
だからこそ自分をみつめ続け、修正していく。だんだんと 本当に自分に必要なことだけが見えてくるし、自分自身も望まないことはしなくなりました。