見性の特徴のひとつ(悟りの特徴一部)
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見性の特徴のひとつ(悟りの特徴一部)
今日はちいさな一歩で小出しにしてゆく予定のもので、
これまで出し惜しみがちだったものを少しだけここに公開します。
以前の記事にて、「実践的ワークショップ すべてに献身し 心をニュートラルにしてゆく」といったものを書きましたが、(更新日2010/8/31)
その中で私は以下のように記しました。
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欲望にはまりすぎない。
足るを知る。
不正を行わない。
道徳を厳守する。
こうしてゆくことにより心はニュートラルになり、
不正をしている人やインチキも割りとすぐに見抜けるようになります。
(これらははるか以前に、「上を向いて歩こう」の「嘘は身に還る」でも多少触れています。)
そしてこれらは別の言い方をすれば、ありがちな損得ばかりを考えず、できるだけ他者と自分を区別しないということでもあります。
それは自他同一。 (注へ
たとえばですが、透明で澄んだ水になにかモノを落としたとしましょう、
透明で澄んだ水であるなら、水の中に落とした物、それらはすぐにその異物の正体がわかるというもの。
これら欲望にはまり過ぎず、道徳を守り、不正から離れてゆく姿勢というものは、水で例えればにごりをできるだけ少なくしてゆくことなのです。
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この記事は一読して頂ければおわかりになるように、「見性」(けんしょうと読みます)について触れたものでありますが、
しかしこの記事ではポイントだけを押さえ、かなり大雑把な説明しかしておりませんでした。
なぜ欲望にはまりすぎない事が大切なのか?
なぜ足るを知り必要以上に求めないほうが良いのか?
なぜ不正を行わず道徳を守るべきなのか?
そしてなぜそれらをしてゆくと心はニュートラルになると断言ができるのか?
そのニュートラルとは一体全体何を意味したものなのか?
ニュートラルという表現だけではあまりに曖昧すぎるではないかと。
繰り返しますが、この時の記事は「見性」を扱ったものです。
「見性」、別の言葉に言い換えればそれは「悟り」であり、
「円成実性」という言葉でも表すことができるそうです。
できるそうですだとか、あいまいな表現になってしまうのは大変に申し訳ないのですが、
私が「見性」という単語そのものを知ったのは去年なのです。
しかしこの「見性」の状態を初めて体験するようになったのは、
「上を向いて歩こう」の第一部の、「愛」を書きだした、2000年の年末。
この原稿は「見性時」の年末に下書きが出来上がり、清書が完了したのは翌年の1月7日。
この時生まれてはじめての断食行をし、初めてでありながらも丸9日間の断食に成功し、
この間に初めて「見性」に手が届く。
その特徴の幾つかを列挙してみますが、
まず我執が消えていると自身でもしっかり理解ができ、(普段の私はもちろん我執はあります。)
那田尚史さんのサイトの説明にもあるように、我執なく心がまっさら状態であるゆえに、
これがもっとも重要だと思いますが、
物事、事象を見つめるときに、「偏った偏見がない」のです。
これは磨ききった鏡のような心境であると表現がなされていますが、
この状態の時、目の前の視界が異常なくらいにクリアで、
これを表現するのは非常に困難なのですが、この地上世界、つまり3Dの中の、
さらなる明確でハッキリしすぎた3Dの中を見開いている、とでも言えば表現はいくらか近いでしょうかね。
私たちは平面ではなく、立体的な世界でモノを観、生活してるわけですから、
3Dのさらなる明確でハッキリという表現がおかしいのは承知はしています、
しかしそういう表現しか私には思い浮かばないのです。
とにかくこれは筆舌に尽くしがたく、表現の困難なクリアー状態であると。
この時、書こうとする主題に関するものはブレなく真理が私の中で広がるような感じでスラスラと出てくると。
さて、この状態がなんなのか、それは、レンズに付着した色が取れた状態でもありますし、
濁りと言い換えてもいいかもしれませんが、生活環境のなかで染み付いた「偏った偏見」が取れている状態なんです。
これを私は前回記事であります、「実践的ワークショップ すべてに献身し 心をニュートラルにしてゆく」の中で
お伝えをしたかった、「ニュートラル」部分なのです。
「偏見」がないんです。 だからニュートラルなんです。
例えば、王様とは支配的だ。
これは実は偏った偏見なわけですよ。
では、偏見の無いモノの見方で王様を見るとどうなるか、
王様とは、人の個性が沢山あるのと同じように様々である。
さてでは、スジある意見を述べるとします。
でもある人はそれを批判と受け止めると。
しかし偏見が取れてゆくと、
自身も周囲にとっても益となる建設的な意見であると。
こうして、物の見方が変わってくるのですよ。
そう、まさしくニュートラルにです。
ではなぜ私がこうまでして「見性時」のこの性質、特徴を重んじようとするのかと言えば、
「偏見」を抱いたままの状態にしがみついている限りは、「悟り」とは程遠いのだと言う事。
悟った覚者はご覧のように「偏見」がありません。
色の付いたレンズでものを観ているうちは悟りではないのです。
悟りに偏見は持ち合わせていないのです。 それは相反したものなのです。
その事象を曇りなく、レンズの色を通して事象を観るという事をしていない状態だからです。
悟りとはなんなのか? 今回はその特徴の一つを挙げたわけですが、
欲望にはまり過ぎず、足るを知る。
これは偏見を芽生えさせたり増長させない為に必要なものなのです。
不正を行わず道徳を守るも同様で、他者に害を為さず、利他的であるよう維持をしてゆく最低限の戒であるからです。
そしてこの偏見を無くしてゆくには、自と他の区別感をしないよう意識的に持ってゆき、生活をしてゆくのが一番良いのです。
自と他の区別感を無くしてゆくとはつまり、自我に執着をしてゆかないと言うことであり、
自身に執着がなければ「偏見は生まれようもないのです。」
偏見は自と他の区別感、この二元論で言えば分離存在した形である、
他者をまさしく他者と観るからこそ生まれる、執着に起因したものなのだ。
しかしもちろん私たちのこの現実の世界では、当然ながら他者とは分離存在をした形であるのは事実ですし、
それを日常生活の中で否定せよと言っているのではありません。
分離存在をした他者ともうまくやってゆき、自身のごとくその幸不幸に一喜一憂する。
他人が喜ぶことを自身に向けるが如く区別せずにただ行ってゆく。
こうすることにより魂は、霊性精神性と置き換えてもよいですが、
そのステージは神性を益々帯び、愛である利他以上のステージに駆け上がってゆく。
そして最後、付け加えておきますが、
「あるがまま」に「観る」とは、この状態時でのモノの見方であり、
「見性」を迎えた時にこそ相応しい表現であり言葉なのです。
日常生活の中にある「偏見を引きずった状態で事象やモノを見たとしても、それは色つきレンズを通してものを見ているに過ぎないからです。」
(以前の記事、 http://firstdoor.jugem.jp/?eid=280 このコメント部分で触りだけお話してありますが。)
注、
怒りの意識は一見すると、負には見えますが、必ずしも悪感情とは言い切れません。
この件についてはまたいずれ。
注2、
「見性」時は物事を捉えて考えるとき、それに沿った真理が湧きでると少し前に書きましたが、
それと同じように、他者が書いた、もしくは他者が唱える真理が誠なのか、
その真贋を見極める事ができると記しましたね、
それは「偏った偏見のないこの状態だからできるのです。」
その事柄を見つめたときに真理が浮かび上がりますが、
偏見が消えたまっさらで鏡を磨ききった状態であるからこそ、
説や論のおかしい部分があればクッキリとわかるのです。
今回のこの記事はまとめたら ■ ちいさな一歩 ■ に移動します。
ここで再三ですがもう一度。
いわゆる「悟り」、「見性」には、
状態として、その質として、この時、偏見が消えています。
悟りの質、その一側面は、偏見がない事。
私が進めてゆく、 ■ ちいさな一歩 ■ のワークショップ部分では、
この偏見を日常で少しずつ断ち切ってゆく為のものも盛りこんでゆきます。
出家者であるお坊さんらの方が市井の中で過ごす我々よりも悟りを早く得やすいのは、
その禁欲的にみえたりする生活やそれら修行生活にあります。
彼らの多くは若干消極的な手法と言えるかもしれませんが、
触れない事によって偏見を抱かず、断ち切ろうというもの。
私はそう判断をしています。
(過大な期待をされたら困りますので再度ここでもお断りをしておきますが、
私は「見性」に手が届いたと言えども、年に数日、あってせいぜいが10日前後あるかないかですから、
覚者ではありません。
しかしこの入口部分までなら、多くの人にとって私は先達であろうかと思いますので、
それらを今後も少しずつ記してまいります。)
さてさて、書き始めると言い尽くす所まで書きたくなってしまうのが小生w
いいかげんここらで筆を置きます。
今後これらに関連したものを書いてゆきますので。
しかしいいですか、
こんなモノより大切なものがあるんです。
それもいずれ記事にはしますが、
そのとても大切なことをみなさんにお願いをしようと思います。
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他者に少しでも多く献身をする為に、
少しでも縁を広めてください。
この私たちの人生の最大のキーワードは他者への愛なんです。
愛上王
11/01/24 23:15:09
おそらく今まで、「見性」、悟りの質なり特徴を、ここまで公開した人はいないはず。
だから言いますよ。
パクリは厳禁。
こういう事は毎度我執から言ってるのではありません。
悪行をさせないため。
そう、未体験なのに体験したかのように振る舞いたがるインチキ先生をさせないため。
それにより騙される人たちを抑制するためでもあるのです。
人の痛みを我が事のように感じる方、 そのような方を私は歓迎します。 まだまだ非力ではありますが、 ■ちいさな一歩■をはじめてゆきます。 ご賛同くださる方、 応援クリックお願いします。 すべて新しいウィンドウで開きます 当ブログがあなたのお役に立ちますように |
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- 2011.01.24 Monday
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- by 愛上王
http://yonemoto.blog63.fc2.com/?m&cr=d98841625ffe6311abdf2a185513137d
ぜひ愛上王さんにも知ってもらいたい話なんです。よくカルトにハマってしまった人間は完全に自分の感覚を失っているなんて言われますが、どうもそうではないようなんですよね。キチンと話をしていけば穏便な方法でも脱会は可能なのに世の中にはデタラメな理論を振りかざし脱会させるには保護説得しかないと家族に吹き込み監禁等の非人道的なことをし金を巻き上げている人達がいるみたいです。
リンクを貼ったブログはそれらを止めようと活動するジャーナリストの方のブログなんです。冷静に見ればジャーナリストの方がカルトの味方なんてしていないのに(むしろ今でもカルトを痛烈に批判しているらしいです。)監禁説得をやっている反カルト団体は裏切り者だのカルト団体の手先だののレッテルを貼っているようです。