スピという言葉は好きではありません

JUGEMテーマ:スピリチュアル
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 「最近の風潮」の続きになりますが、実を言うと、私は「スピリチュアル」なる言葉は本当は好きではありませんし、
ランキングでは該当するジャンル分けでも、既にスピと銘打ってあるので、
やむなくスピリチュアルのジャンルにしてあります。
他には「成功」といったジャンルを扱っているランキングもありましたので、
そちらでは「成功」のジャンルを選ばせてもらいましたが、
まあどちらかと言えば、私の扱うジャンルは、成功も含まれる、
「精神世界」が主体のような気がします。

なぜ私がスピと言う言葉を好きではないのか、
それは、責任の一端を感じているスピブームにあります。

2006年の暮れ頃、2CH掲示板などで、
私が某スピカウンセラーに盗作をされている件がぽつりぽつりと書き込まれていた頃、
私も自分の日記サイトで盗作の件について少しばかり触れていましたら、
2CHや私の日記サイトの両方を読まれているらしい方からメールを頂きました。
その方曰く、
波長の法則やらカルマ、子が親を撰んで生まれてくるなどと言った、
私が提唱していたものらを指し、
それらは古くからスピリチュアルで語られてきたのではないかと問うてきた。
しかし実際は違います。
いにしえからある、「カルマ」という概念はそうかもしれませんが、
波長の法則やら子が親を撰んで生まれてきたなど、
これ以外にもそれは盗作をされ続けてきたものは山ほどありますが、
スピという言葉がブームになる以前はどなたも提唱をされてなどいなかったはずだからです。
つまり、盗作をした彼の本が有名になり、
それ以降、既に13年も前から書き続けてきたこの私の内容までもすら、
スピという枠組みの中に既に存在をしていたかのようにその方は錯覚をされていた。
私は、訳があって、他の方のスピやら精神世界等に関するものは読まないように努めてきたのです。
それは、私の日記サイトで以前にお話してある事なので重複をしてしまいますが、
私の日記サイトから引用をします。



2007/1/8

 最近はぼちぼちとお手紙を頂いたり、
またある方はご自分のブログでこの件に触れたりされる方もおられ、
徐々にではありますが世間にてこの件が認知されつつあります。
(ブログを書かれた方、お手紙待ってますよ)

さて今日は、頂いたお手紙の中でも、
私が触れたかった部分を指摘されてるメールを頂戴しましたので引用し、
その指摘に対する見解を述べておこうと思います。



> 波長の法則、カルマ、子が親を選んで生まれてくるという話は、
> 昔からあるスピリチュアルな本でずっと語られてきましたよね。
> ですので、最近の霊能者が言ってる事も、すでに心霊哲学者の間では常識のようです。
> ひとつの真実、真理を、昔から色んな人が語っているのだから、内容としては同じ事を言ってるのは仕方なくないでしょうか?


仰りたい意味はこれまで十分に理解をしています。
彼はまさにあなたが言われるそこをついてきたのですよ。
カルマという概念、これはいにしえからあります。
もちろんです。
ですが、彼は、あなたが言われるように、
一般的な概念だろうと踏めるものを狙い撃ちした形で盗作をしているのです。

> 昔からあるスピリチュアルな本でずっと語られてきましたよね。

しかしこの部分はどうでしょうね?
スピリチュアルと呼ばれる分野の中で提唱をされているものが、
一体どの範囲にまで及ぶのかは私は知りませんが、
波長の法則といったものは、心霊哲学者がうんぬんするというより、
対人間間における科学のような分野こそ相応しくはありませんか?
これらのように、彼の盗作は、一見、
スピリチュアルや心霊哲学者のカテゴリーに納めてしまうには無理のあるものもかなりあるようです。


> ですので、最近の霊能者が言ってる事も、すでに心霊哲学者の間では常識のようです。
この、常識のようです、という文もかなり不透明に感じます。

> 波長の法則、カルマ、子が親を選んで生まれてくるという話は、
> 昔からあるスピリチュアルな本でずっと語られてきましたよね。

この部分について私の思うところを書かせて頂きますが、
私はそれら、世で言う所の「スピリチュアル」と呼ばれているものを読んだ事はありません。
ですのでその断定には賛同できかねます。
私が主に読むのは半生や体験記が主体ですので、それらデータものは避けてきています。
ですからそれらをスピリチュアルなのだと言われても理解ができないのです。


> ひとつの真実、真理を、昔から色んな人が語っているのだから、内容としては同じ事を言ってるのは仕方なくないでしょうか?

突き進めて考察思索してゆき、同じものに行き着いた、そういった見方をされたいのもよくわかります、
ですが、鏡の話、波長の話、親を選んで生まれてきたという話、
人は愛なしでは生きてゆけないや、マクロなる因果や、その他さまざまなもの、
そしてこれからも沢山露見してゆくであろう彼の数々の盗作箇所、
贔屓目に偶然と片付けたとしても、あまりにもその数は多すぎませんか?


> 昔からあるスピリチュアルな本でずっと語られてきましたよね。
彼がもしいくらこれらを盾にしようとも、その数はあまりに多すぎます。
これらすべてが偶然の一致なのだというのはもはや天文学的な確立としか言いようがありません。
そしてそれら天文学的な確立の偶然がはたして起こりえるものでしょうか?
否、彼は、世で言う一般的な見解にみえなくもないものを主体に、
そして時には私が綴った言葉そのままに使っています。
これを確信犯と言うのです。
それは、彼には、

> 昔からあるスピリチュアルな本でずっと語られてきましたよね。

心の奥底にこういった詭弁を用意しているからなのです。
しかしそれも、あまりに一致するものが多くなればなるほど、
実際は偶然似てしまったのではなく、
私のものを読んだ上で盗作をしていたのだと白状をしている形になってしまうのを彼は忘れている。
彼は私が盗作を暴露などするわけがないとこれまで安心をしてきた。
彼がそう考えたであろう事は容易に推察できます、私は、許しているからもうやらないで欲しいなどと、
生ぬるい事ばかりを日記に書き綴り、まさか怯えて抵抗もできないままのような犬が、
突然噛み付いてくるなど想像できたでしょうか?


これだけの数の一致はなんだと思います?
それは彼の盗作だからです。
そして、それら彼がした盗作箇所は、
私が気づかなかったものすらもが、これからも沢山露見をしてゆくでしょうね。
なぜなら彼は、私が噛み付かずおとなしくしているものだと思い込んでいたから。

ここで皆さんに考えてみて頂きたい事があります、
なぜ彼は、最初に盗作した一連のものを「愛」を題材にした書籍に盛り込んだのか。
そして次になぜ育児書を書くときに盗作箇所を盛り込んでいったのか。
前者は彼が愛という分野をちょうどその時書いていたからでしょう。
では育児書は?
私は、自分の原稿を書き進めながらも、育児に通じるものも幾つかの箇所で書き綴ってきたのを皆さんは覚えているでしょうか。
九章では、 【 正見による人との接し方 】を書きました。(育児に通じる箇所はここだけではありませんが。)
ぜひ今一度お読みになられてみてください。
そして、盗作をしたその人の該当書籍がお分かりになるなら比較しながら読んでみてほしいのです。
彼のその書籍は、私の書いているものをベースにしている箇所がふんだんにあるはずです。
彼はこうしてこれまで、私のサイトを参考書がわりにしてきているのです。
彼は、私の書いているものをベースにしてきた、だから愛、そして育児と、
それらの書籍の順序は私の書いてきたもの通りの順番なのです。
(これは彼のほかの書籍にも言えるはずです。私が古くに書いたものは彼も古くの書籍、
私の書いた比較的新しいものは彼の書籍でも比較的新しい書籍に盛り込まれているはずです。 
それらはこれから露見もしてゆく彼の盗作箇所を見つめてゆけば自ずと判る事でしょう。)


こうして味をしめた彼は、私の書いたものに納まらず、ついには他の方の書籍ににまでその盗作は及ぶようになった。
それが現在の彼。



これを読まれている多くの皆様へ
彼の私が気づけなかった新たな盗作箇所を発見されましたならぜひお手紙をお送りください。
ある程度まとまった時点でそれらを公開してゆきますので。


2007/1/10

 今日はある方への返事をこちらにて。



○○さんこんにちは、はじめまして、愛上王と申します。
ご意見頂きまして有難うございます。

今日返信を書きますのは、思い違いをされているようですので、
そのあたりをお話しておこうかと思います。


「誰が先に書いたか、誰が先に言ったか」
まずこのあたりにこだわられているようですが、
私は、盗作をした人がいるという一点に焦点を当てています。
つまりそもそも主旨が違います。

あなたが仰りたいのは、概念としては古くからあったろうから誰が今さら言おうが関係ない、
そう言いたいのでしょうね。

そういう視点で盗作の件に触れているのではありません。

盗作か否かを問題にしているのです。

例えば、イエスの放った言葉をそっくりそのまま自分の言葉のように人々に喧伝
してるものがいたとしましょう、これはあくまで仮にですが。
聴衆に混じりイエスの言葉を聴き、イエスのいない場所に出かけては、
そっくりそのままをさも自分の思想の如く人々に語ったとしたなら、
それは誰の目から見ても盗作でしょう?

私の書いた原稿ですが、ここでも仮に、
○○さんが数年かけて書き上げたとしましょう、
サイト読者がそれをちょこちょこと盗作し、
さも自分の考えのように喧伝をしていたなら、
それは盗作でしょう?
何年も月日をかけて書き上げてきたのにも関わらず、
さも自分のもののように振舞って使われる方がいたなら、
気分はよくないのではありませんか?


サイト上ではすでにお答えしましたが、
今一度ここで。
彼は、一般的な概念に見えなくもなさそうなものを主体に選んで盗作をされています。
「人は愛なしでは生きてゆけない」
突き詰めて考察すれば、これらは一般的な概念ではあろうと思います、
太陽と北風を引用し、そこで私が喩えを織り交ぜながら話した部分もです。
こういった、なんだ、そんな事は一般概念じゃないか、そう受け取れそうなものを主体に彼は盗作をしているんです。
そこが彼の狡猾な所なのですが。
しかしよく考えれば、それら一般的な概念にみえそうなものであっても、
同じ人物の書いたものの中からいくつもあれもこれもと使っているなら、
それら一般的な概念だろうという建前を狡猾に利用した「盗作」ではないですか。
違いますか?
盗作者というのはそういった自分に都合よく受け取れる建前はちゃんと用意してるものなんですよ。
それらは自己欺瞞なんですがね。
一般的な概念にみえなくもないだろう、だから盗作だと私が決め付けてかかるわけにもいくまい。
そういった考えが彼にあっての事なんですよ、これらは。
しかし彼は、ほどほどにしておく事を知らなかった。
なにしろうまくいってしまったんですから。
だから彼はそれ以降も続けたのでしょう。
そしてそれこそが致命的なミスなのですが。

私の書いた中でも古くのものは彼も古くの本に、
私の書いた中でも比較的新しいものは、彼も比較的新しい本に書かれているはずですよ。
たとえどれだけそれらが世間で言う所のスピリチュアルと呼ばれるものに相応しい内容で、
自分のものの振りをしようとも、こういった事にまで彼は考えが及んでいなかった。
だから彼は延々と盗作を続けてきたのです。


>昔からあるスピリチュアルな本でずっと語られてきましたよね。
この部分、あまりに曖昧すぎますよ。
私の書いたもののうちの一部がそれらの世界で言われる中にも以前からあったと言われたいのでしょうけど、
これはせいぜいがカルマの法則くらいしか思い当たりません。
私の書いてきたものはあなたからみれば、
そういったスピリチュアルなる世界のもののように映ってみえる、
要はそういうことでしょう?
あなたの主観でしかないのに、
私の書いたものをすでにそれらの世界にあったかのような断定はよくないのではありませんか?
もちろん、自分自身でこれまで書いてきたものの中にはそれら世間でいうスピリチュアルなる世界の枠の中に収めてもおかしくないように
見えるものあるでしょう、ですがすべてをそうだときめつけておられるからそういった主観で判断をされてしまう。

>ですので、最近の霊能者が言ってる事も、すでに心霊哲学者の間では常識のようです。
これも同じですね、主観的希望的観測で、常識として扱われている、と、なんら根拠なく思い込まれておられます。
こういう思い込みをされると、私がこれまで書いてきた、これからも書いてゆく、原稿や下書きはみな、「常識のようです」の一言で
なんでもかんでも扱われてしまうことになってしまう。


そもそも、○○さん、あなたは、私が、何かを読みふけりながら、
モドキ物でも書いているのだとでも思い込んでいませんか?
私は、内垣氏の半生や、笹目氏の半生、シャーリマクレーンの体験記、
ヨガナンダの自叙伝、こういった人生の物語は読みますよ、
あとはせいぜいスポルディングのあやしい体験記くらいですね。
ですがたとえば、シルバーバーチの本などは読みませんし、
バガバッドギーターも棚にありますが、まともに読んだ事がありません。
聖書もろくに知りません。 きまぐれで数ページ読んでみたことがある程度ですし、
私にすれば、どれもああいったものは読むのがおっくうでめんどくさいのです。
これらは私にとって、噛み砕くようにできうる限りわかりやすく書かれているとは思えないのが一因していますが、
(もうひとつ肝心な理由があります、後で書きます)
どちらかといえば私は仏教徒と思ってはいますが、
仏典すらも隅々読んではきていません。
例えば、仏教では四諦やら八正道があるといいますが、
私はそれらがどういうものなのかをお恥ずかしい話ですが実は知りません。
ただ満足に言葉として知っていたのは正見くらいなもの。
その正見すらも、正しさの正確な基準がなんなのかいにしえから世では問われ続けており、
正確な答えをこれだと表明してきた人物はいないのだと聴いておりました。
○○さん、たとえばこれまで、正見の正確な真の基準を誰かの本や人づてで聴いた事がありますか?
あるはずがない。 誰もその答えをこれだと明示してこれなかった未踏の難関だからこそ
正見の真の基準が世に書籍等で浸透してこなかった。
私の書いた正見の答えは、私が断食と瞑想とによって得たものなんです。
これは私の書いた原稿の他の部分にも言える事なんです。
私が何かをやむなく参照にした場合は、それらの書籍をきちんと明示してきています。
もっともそれらは、不思議な事ですが、たいていはその原稿を書き上げたあと、
しばらくした頃に引用や史実として付け加えるのに相応しいものと突然出会っての事なのですが。
まあこのあたりの事は、私の原稿にばかり目をうばわれるのではなく、
原稿が書き進んできたそれまでの間の様子が綴られている私の日記を「くまなく」お読み頂けないと分からない事ではありますが。




私がなぜ「盗作」に視点をあて、それにこだわるのか、
そのあたりをお話しておきましょう。
頂いたメールを読む限り、少なくとも私の原稿のフル版だけは最低限お読みになられていると思います。
私は、この原稿仕事は、どこそこの出版社に依頼を受けてとかいった、ごく普通の取り組みではじめたのではありません。
もしそうだったならどれほど気が楽だった事か。
シルバーバーチだろうがなんだろうが、あれもこれもと読むのにきっとためらいは何もなかったでしょうね。
私がこの仕事に進む理由は原稿の巻末にあります
「ことはじめ」を今一度お読みになられてみてください。
私は自分の身におきた奇病を癒してもらうが為に誓約として誓い、
この仕事を始めたのです。
途中で投げるわけにはいきません。
私がこの仕事に進むことを誓った相手は、姿かたちも観る事のできない神ではありますが、
だからこそ、私が進めてゆくこれらの作業は引け目があってはならないものなんです。
神に誓った作業の中身が、他の人の書いたものを読んで書き写すようなモドキであってはならない。
これが私が他の方のデータになりそうなものを避けている理由です。
私が書き上げたものを世に出すのは神に誓った事を守る事でもあるんです。

なのに、私の書いたものを盗作する方が出てくると、
しまいには逆に彼のまがい物扱いをされてしまうおそれがある。
すると結果、彼のまがい物と思われたなら私の原稿は誓いを果たせなくなりかねません。
一切はこれらを危惧しての事なんです。
私は彼の盗作は許していると書いてきたではないですか、
ですがこれ以上させるわけにいきませんし、
まがい物扱いをされる危険性は払拭もせねばなりません。
ですからこの事を世に認知してもらうが為に彼が盗作であることを表明しているのです。

私にとってこの作業は神聖なものであり、無我無心無執着であるべきなのだという事は百も承知しています。
だから精一杯頑張ってみて、その上で私の原稿を結果として世に送る事ができなかったなら、
誓った相手、神も、私を咎めたりはしないとは思いますし、
だからこそ私は結果にはとらわれる必要はなく、ただ進めてゆけばよい。
それらの事も十分に承知しています。

しかし私はその上で、「自分のできる最善を行わなければならない。」
違いますか?

上の方で、
私は、訳があって、他の方のスピやら精神世界等に関するものは読まないように努めてきたのです。
と書きましたが、
上記の日記の、赤く太字にしてある部分をお読みくださればその真意はどなたも理解して頂けると思います。

上記に抜粋した日記を含めてですが、
私の日記では、中には思い違いをしているものもあります。
盗作されている順番や、
盗作されている箇所が私が思っていたもの以上に実際は古くに書いたものからだったりと。



上記で記されている「ことはじめ」は、「上を向いて歩こう」の第三部のもっとも巻末にあたる
「付録とあとがき」に書いてはありますが、
ここでもう一度UPしておきます。

【ことはじめと展望】
 本書を書き始める「ことはじめ」となったできごとをここに綴るのは正直言えば苦しいものがあります、
私自身の心の中にあったみにくい部分を読者であるあなたにさらけ出す事になるからです。
しかしそういった本書の生い立ち部分も読者にとってきっと意味のあることに違いありません。
本書をこうして一読した読者の中には、もしもこの本に書かれてあるものを自分の人生に取り入れていったなら、
本当に自分の人生にさらなる愛と幸福がやってくるかもしれない、異性はもちろん、
多くの人々にも愛されて満たされる人生を歩むことができるのかもしれない。 
かたやそう思いながら一方では、私は人をみてはひがんだりもすればねたむこともあるし、
人を傷つけたこともあるどこにでもいるごく普通の人、この本は私には縁遠いものではないだろうかと。
読者の中にはこんな不安を持たれている人もいるかもしれません、しかし本書を書き始めるきっかけとなった話である、
私の心の中にあった人間の弱くみにくい部分をあなたにお話するのも、そういった不安をもつ人へのきっと慰めと励ましになろうと思います。

 1987年、当時の住まいは神奈川県は鎌倉市。
この頃私はある女性とおつきあいをしておりました、しかし休日が合わないゆえかその女性は別の男性に心惹かれた様子。
二人でいる時もその男性の話題が出ては楽しそうに話します。 どうやらその男性は職場の同僚のようでした。
この時、私は正直かなわないと思ったのです、その女性は好意を抱く男性と側に居れる時間が私よりずっと長いのですから。
想像していた通りの結果、私とその女性の関係はゆっくりと冷えていきました。
私はその女性と仲良くすごしていた時に触れた彼女の持つ優しい部分を思い出してはとても暗く沈んだのでした。
私は二人の関係が冷えてしまったその時、好意を持たれている男性を逆恨みしたのです、
間違ってはいました、こうしてあとになって思えば。
しかしその時はその男性を私は憎みました、その時の私はまるで破滅の心そのものでした。
私は強く強くその男が消えてしまえばいいと憎み、会ったことすらもない男性に憎悪で心が一杯だったのです。
心が憎悪でいっぱいな日々を過ごしていたこの時に、私は発病をしました、
原因不明の突然の奇病、身体全身が白いかさぶたでおおわれたのです。
全身にかさぶたができる病いは聞いたこともなく、それからは毎日どうしたらいいのかわからず半狂乱となり、ひとり部屋の中で泣き狂っていました。
正常な判断がしたくてもどうしようもなく、医者に行くべきなのはわかっているのに外出しようがないのです、
手や顔までかさぶたにおおわれてしまっては食べるものすら買いに出歩けなくなりました。
しばらくは冷蔵庫の中にある物を食べて暮らし、そして数日が過ぎ、とうとう食べる物は尽きて、
追いつめられてこのまま死ぬしか道はない、そう思わざるおえませんでした。
どうしようもなかったのです、日増しに身体は白いかさぶたが増えていくばかりで治る見込みが全くなかったのですから。
これでは雇うところもありはしなく働く事も到底無理。 生きたいのにとても生きてゆけない。
このまま死なないにしても治らなければ生涯家から一歩も出られやしない、
しかしそれ以前に食べる物がないなら死ぬしか道はないともはや否応なく死を選ぶ。
苦しまずに死ねる方法はないかと頭を抱えていた日の夕方、その女性は私の家に再びやってきました。
彼女にこんな姿を見せたらきっと気持ちわるがられるにちがいない、そう思い私はすぐにその女性を帰そうとしたのですが、
しかし彼女は私の姿を見ても気味悪がることもせず、私に慰めの言葉を幾つか投げかけ、
私が落ち着いたのを知ると職場の同僚であるその男性の近況を私に話しはじめたのです。
その男性は行方不明のようで職場にも出勤をしてこないと。
ばかげた話のように思われるかもしれません、しかしこの話を聞いた私はこの時確信をしたのです、
私を襲ったこの奇病はきっと偶然などではなく、人を恨んだり憎んだりした心が引き起こした苦しみであり、それはきっと天罰に違いないと。
その日の夜から毎日懸命に天に祈りました、神に祈り、身体を治して欲しいと乞い、天罰の許しを乞うた。
鏡を覗けばそこには心の醜さを表すように鬼のような形相となった私、毎日泣き狂っては半狂乱の無様な姿。
だって仕方ありません、自分の身体のすみずみが白いかさぶたでおおわれては、目にみえる所、手も足も顔もすべてが、
もう家から1歩も出られやしない。 私は目覚めているあいだ、意識のある間中泣いていた。
身体を治して欲しいと天に乞い、人を憎んだ事を後悔し、私は生れて初めて真剣に懺悔した。
目覚めている間中溢れて止まらなかった生きたくても生きてゆけない絶望の涙。 懺悔の気持ちに嘘はなかった。
だけどどんなに祈ろうと泣き叫ぼうと天は答えてはくれませんでした。 
天罰を受ける身でありながら自分の願いを通そうというのがそもそもの間違いなのでしょう。
しだいに願いを聞き入れてもらうには、願いに見合うだけのものを私が差し出さねばならないのだと考え、
私は藁をもすがるように天に向かって誓約をしました、
他人の愛の為に生きる人間となりますからどうか願いを聞き届けて下さいと私は訴えたのです。
窓の外には空を覆うようなに広がる白っぽい雲が見え、それを見たわたしは、もしもこの誓いによって願いを聞き届けて下さるならば、
その証を私にはっきりとわかるように、空一面の雲に大きな穴を開けてしるしをみせてくれるようにと訴えたのです。
祈り続けて数時間後、ひとけが少ない事を確認してから家の外にでる、
時間は真夜中、空一面にはめずらしく隅々に覆われている厚い雲を見上げました、
おそらくそれは生涯に一度見ることができるかどうかの不思議な空でした。
空が曇っているのとはちがい一定で均一の厚みがあり、色は昼間みかけるように白く、雲には一点の隙間もちぎれもなく、
そして通常よりかなり低い位置にあり、東に西に北に南に、それは果てもなく空一面に敷き詰められた、
まるで一枚の広大な雲でできている絨毯のようでした。
それは少しの疑いも持てないようにとその事のために用意されたかのように。
私は願いを聞き届けてもらえた証はないかとさらに真上を見上げました、
私の住んでいたそのアパートの真上には、求めた徴通りのものがありました、
「まるで作られたように、きれいにくり抜かれた円柱状の雲の穴から月の光が射していたのです。」
見渡す限り切れ目もなく小さなちぎれもないその一面の雲に、見上げた頭上のそこだけがまあるい円を描くように切り抜かれた円柱状の雲の穴、
それは神に向かって訴えた誓約が聞き届けられたしるしであることはもう疑いようもありませんでした。
この時、身体を癒す約束を望んだ通りしるしで見せてもらい、その代償として誓約を結んだ瞬間でした。
これを読まれている読者の中には、他人の愛の為に生きると誓約するなど、よく恥ずかしげもなく言えたものだと言われる人もいるかもしれません、
でもその時の私には恥ずかしげも何もありませんでした、必死だった、それどころではない、生きるか死ぬかで恥ずかしいも何もなく、
人を憎んでこうなったのだからこう誓約するべきだとしか思い浮かばなかったのです。
願いを聞き届けられたか空を見上げに玄関を出て、そこに徴として見せられたあの時、
私は不思議な気持ちで一杯でした、
上を向いて空を見上げた私には、雲の上に、空の上に、まだ生きてゆける希望を見つけたのです。

 この後、私は他人の愛のために生きると誓ったことを半ば忘れたような刹那な日々を過ごしていました。
正確に言うなら、どうしてよいのか分からずにいたと言えばよいかもしれません。
ただ漠然と、多くの人々に触れるように本の形にしていったらいい、そう考えていました。
でもこの頃の私にはまだ本を書くだけの力量などあるはずもなく、しばらくは書き上げるための土台となる期間を迎えたのです。
まるでこの本を書き上げるために物事が起き、様々な人間関係がうまれ、整ってゆく。
本書で綴ったエピソードの大半を私自身が身をもって知るために。
本書を書き始めたきっかけはこうした、人を憎むという私自身の心の中にあった弱さや醜さにありました。
どんな人にだって過去はあります、そしてきっとどんな人でも変わる事はできるのだと思うのです。

 雲に円を描いたような円柱状の穴があいたのは偶然だったのでしょうか? 
夢でも幻でもなくて、生きるか死ぬかで泣き叫んでいた数日間の最後におきた出来事、
この日のことは忘れようとしても忘れられません。
問題の私の身体を蝕んだ奇病ですが、この後医者に通わずに2.3日の間にすっかり完治しました。
身体を癒やしてもらうための代償として誓約をし、神に向かって聞き承けてもらえるなら証として目に見える徴をみせてくれと訴えたのは、
今にして思えばわがままであったかもしれません。
人を憎んだ事を後悔し懺悔をしたのなら、しるしを見せてもらわずとも誓った通りに黙って人生を送ればよいのではないのかと。
しかしこの時の私は明日をもしれません、家族との縁が薄い私には人に頼って生きながらえる事すら困難だったのです、
そしてもしもこの世に神がいるのなら、きっとしるしを見せるくらいのことはなんでもない簡単な事だろうと勝手なことも考えていたのです。
もしもこの世に神がいるのなら、時々人間に、疑い様もなくその徴をみせるもの。
 この本のタイトルを日本歌謡史上最大のポップスヒットである「上を向いて歩こう」と奇しくも同じとしたのは、
ことはじめとなったこの日の出来事に由来しています、
口ずさむ歌詞はあまりにこの日の出来事に重なります、あの日、空をみつめた日から。

 話は変わりますが、私には見果てぬ夢がいくつかあります。
それは人が聞けばきっと笑っておしまいになってしまいそうなもの。
 ひとつは、この本は個人間の恋愛といったミクロなものに留まらず、一対一の愛からもっとマクロな、この世界に生きる者すべてが求めているもの、
誰彼となく人が人を支えあい、愛しあい、助け合い励ましあえるような、そんな愛で溢れた世界となってほしい願いを込めてこの7年間書き綴ってきました。
そして今まで長い間書き進めてきた私は、人々に向けて愛を綴ったものを書くからには私自身は無執着、無頓着、無欲であるべきと長く考えていたのです。
しかし数年前から少し考え方を改めるようになりました、この世のすべてのものはそれが艱難辛苦であろうとも、
何一つ人間にとって無駄のない、みなそれは愛の具象化した顕れにすぎないと考えるようになったのです。
金銭ですら神が人間に与えた愛の具象化したものであり、それはこの世界に溢れる愛を源とした血液のようなもの。
金銭そのものは決して不浄と考えなくなった私は、金銭を世界に溢れる血液とみなしているのです。
私がその愛の血液を外側である人々に向けて放つなら、足りなくなった私の許には益々補うように私のもとに流れてやってくる。
もしも外側である人々に向けて放つことをせずにいるなら血液は流れを失い、私の許にもやってこなくなる、詰まった血管は流れを止めてしまう。
愛を外側に、人々に向けて、そうやって益々私の許に流れやってくる愛は、それをさらに人々に向けて放つ、
血液は本来流れてゆくもの、愛は独り占めせずいるからこそ私達にも降り注ぐ。
私はこの書籍から得られる利益によって、日本のあちこちに、そしていつかは世界中に、土地を購入して畑にしたいと考えています。
働けない体であったり年老いた人、そういった人たちが食べてゆくのに困らないよう自給自足ができる畑が欲しいのです。
その昔、東京キッドブラザース主宰であった故 東由多加が思い描いたさくらんぼユートピアや、宮澤賢治が夢に描いた理想郷、IHATOV。
今思い描く次の夢は彼らが夢見た理想郷に重なっています。
そしていつしか人々が自給自足で収穫をもとに生活を安定させながら、その次は収穫した穀物を海外に持ってゆきたいのです。
アフリカでもどこでもいい、食べたくとも食べれない、働きたくとも働けない人たちが世界にはたくさんいる。
自給自足で畑で働きながら海外のあちこちの国に穀物を持っていって飢えを少しでもなくしたいと思う。
そう、今はあくまで夢。 でもそんな人が笑う夢を描く事を私はやめない。
この本が人々に買われ、多くの人に読まれてゆくなら、そこから得られる利益できっとできるはずです。
苦しい人や困っている人、悲しんでいる人たちは遠いいつかの自分自身、それはいつかやってくるかもしれない未来の自分自身の姿。
人に無関心でなんかいられない、私達には本当は誰一人と他人というものは存在しない。
今はすぐにできる事ではないかもしれません、書き上げたこの本が大勢の人々に読まれなくては話にならない。
思い描いた夢が一つひとつ叶えていけたなら、きっと触発も始ると思います。
誰かが始めなくっちゃ誰もやろうとしない、
だけど、誰かが始めたなら  ―――――  違ってくる。
もしも誰かがそうやって世界中の苦しむ人たちに向けて食べるものを分け与えるようになったなら、
きっと触発ははじまるはずです。
今度は施設を建てる人が出てくる、その穀物を調理する人も出てくるようになる、
医療も組織化されるようになって無償でみてもらえる施設を作る人だってきっと出てくる。
私のような一個人が一冊の書籍の利益で始めれるくらいならこの世にいる大金持ちだってそれみてきっと始める!
私は人間を信じている。

 触発となる最初の足掛けはまず国内で大勢の人に読まれること。
そののち翻訳されたものが海外でも読まれること。
そうやって少しでも多くの人たちに読まれ、そして世界中の少しでも多くの志をもつ人たちに読まれたいのです。 
それはもしかすると無茶なことなのかもしれません、それでも私は諦めない、
いつしか愛の触発がはじまるように。



(私の日記サイトのアドレスもここに載せておきます
http://cgi.osk.3web.ne.jp/~lovenet/tubakikaoru/k0020.html
これは肝心な盗作問題に触れている日記ですが、
何分、私の日記サイトは、半隠し、半パブリックという様な、
見つける事ができた方だけが読めればよいといった形でしたので、
ローカルな話題や、はちゃめちゃな書きっぷりなものも多数ある事を前もってお断りをしておきます。)

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