幸せを分け与える

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 幸せを分け与える

幸せを分け与えるということ
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幸せを分け与えるということ 大切な補足
http://firstdoor.jugem.jp/?eid=223

今日は過去記事のピックアップです。
上記二つの記事は、1996年より運営をしています、私の別サイトであります、CuteGirlsJapanのセカンドコンテンツ内で2003/9/21に記し、
大切な補足と題しました記事は、翌日、2003/9/22に、内輪に向けたある方へメールをしました時の文を抜粋したものです。

第1回は
【幸せを分け与えるということ】

 とある国のお坊さんは、人に、自分が幸せになって余ったなら分けてあげればいいと言いました、
しかしこれは小乗仏教そのものなんですね、
日本に伝来されて根付いた仏教は自己と他者の幸福を願うのが根底にある大乗仏教や真言宗にみられる密教が主ですから
日本人は小乗の狭い考え方を仏教としては捉えづらい。
それは慣れ親しんできた大乗仏教とは異質な狭く利己的な教えに聞こえるからです。
 (注、小乗や大乗といったものは後世の人々が枠組みしていったものであり、
仏教の祖であるお釈迦様は本来、小乗だ大乗だと分けてきたわけではありません。)
わかりやすく言うなら、狭く自己を追求したところが小乗であり、
仏教のベースが小乗が基本となっている国々は実の所は発展途上の国々がほとんどなのです。
それはその土地に生まれ住まうその人のカルマが他を省みる余裕のない小乗的なものを多く有しているからであり、
仏教が伝来している国々の中で大乗が基本ベースになっている国々は栄えている国が多い。
大乗の根底となっているものには他者の幸福をも同時に願うより本来の仏教、慈悲が大きなウエイトを占めているゆえんと思われますね。
自己ばかりを追求した小乗は大乗の広義な慈悲を人に向けてはいません、
そこにこそ国々やそこに住まう人々の姿勢が発展途上として現実に現れていると言えるのです。

「日本人は大乗仏教」
 大乗的に物事を捉えて考え、生活してゆく習慣のある人は、
その人の魂の成長段階として小乗的な自己を追求してゆく成長過程からはすでに卒業しているのであって、
心が成熟して大乗仏教のステージにいる人に、成長段階として下降してゆく形になる小乗仏教的な物の捉え方を勧める事は良いことではありません。
日本では実際に小乗仏教が基本ベースとなっているものは尊ばれません、
それは日本人の大半の人々が小乗をほぼ卒業し終え、
心の成熟、魂の段階として大乗クラスの仏教が段階として受け容れるのに相応しいといった
カルマがあって日本に生まれてきているからです。
私たち日本人の多くが、私さえとか、まず自分が、と考えたがる人を見つめては心の狭い人と感じるのは、
日本人のその多くが他を思いやって成熟成長してゆく魂の成長段階として日本に生まれてきているからです。
当然小乗仏教的な狭い考え方や捉え方は卒業し終えている人がほとんどですから小乗的なものは尊ばれないし流行らない。
小乗仏教の国々の人が日本にやってきても聖者としてはまず扱われませんし、
人々はその多くを行者のような受け止め方でいます。

「苦楽は鏡のように自分に還る」
 ある小乗仏教の国の坊主は苦が嫌いだと言いました。
嫌いであろうと好きであろうと、人が日常で味わう苦と感じる物はすべて、
自分が自分に与えている事に坊主でありながらも小乗ゆえに気づいていない。
カルマ的にみるならばそれは、嫌いなものがあると言うことは実は自分を嫌っていると言うことだからです。

この坊主は、自分が幸せになって余ったなら、それを人に分け与えればいいと唱えていましたが、
まずなにより自分がと血眼になっている者が、いざ自分が幸せに満たされて余った時に人に分け与えるはずがないのです。
(注、その人の考え方の根底が小乗であるからこそと言い直してもいい。)
私たちが住む日本を見渡せばこれは一目瞭然なんです。
百や二百と世界に国々がある中で、日本はその中でも大変に恵まれています、水と安全はタダの国と言われるほど治安はいいし、
食べたい物をいつでも好きな時に食べられる、娯楽の部分も他の国々に住む人々よりも恵まれています、
他の国々では娯楽を考えるより今日の糧をとそこまでのゆとりがないのが実状なんです。
日本人はさほど幸せに溢れているわけでないごく普通の人ですらこれだけ恵まれている、
そんな私たち日本人が幸せに溢れた時、自分の幸せが余ったならその時人に分ければいいと教えられたとして、
その時になって他を省みる余裕が本当にあるでしょうか?
実際に今、物質や精神、どれもが幸せに満たされ余っている人が今現在どれだけ他の為に幸せを分け与えているでしょう?
人に幸せにしたいと思う気持ちは、自分の今の幸せとはまったく関係のない別のものなんです。
私の幸せが余ったなら人に分けようと言うのは、
「自分が幸せでないなら人を幸せにしてあげたくないと言っているのとなんら変わらないのです。」
これは物惜しみやねたみひがみの根元のひとつでもあります。
どうして「私が」幸せでないのにあなたが幸せにならなくちゃならない?
自分が幸せでないなら人に分け与えない人というのはこういったねたみやひがみがその人の奥底にあるのです。

こうしてまずは自分の幸せをと血眼になる人は、これらねたみやひがみが心の奥底にあるからこそ、
それが原因となって自分自身が望んだように幸せにはなれない。
これら心の奥底にあるネガティブな感情は、私たち自身を幸せにするのを妨げている大きな要因なのです。
拙著「上を向いて歩こう」の中でも血液に例えましたが、
これは他に養分を流さないで自分が自分がと他から求める一方の状態なんですね、
他に流してゆかずに求める一方だからこそ詰まってしまい、他から自分の許に流れてこない。
幸せがやってこない人はこうした悪循環を自分で招いているんです。
この悪循環から抜けてゆくにはどうしたらよいでしょう?
「上を向いて歩こう」の中でも唱えましたが、物事は逆説の中にあります、
他を幸せにする事は究極的には自分を幸せにしているのと変わりがないのです。
それをカルマといい、私たちが人々に向ける苦楽は鏡のように現実に自分に還るからです。
「上を向いて歩こう」の表紙にはこれらの答えの鍵となるみかんの話を載せてあります、
もし人が幸せでないなら、その悪循環から抜けて自分が幸せになるには「まず人を幸せにする事なのです。」



2003/9/21


幸せを分け与えるということ 大切な補足

 幸せを分け与えるということ 大切な補足 ある方へのメール編(2003/9/22) (前編を読まれていない方は先に一読を。)

 幸せを人に分け与えるというテーマは、元々以前から書く予定でいたんです。
もちろん「上を向いて歩こう」の中でも触れてはいます、
ただし、「上を向いて歩こう」の中で扱ったテーマのどれもそれも、
紙面の都合を考えて切りつめて最小限しか書いてはいないんですよ。
これはどのテーマもがなんです。
この先数々の分野のモノを書き進めてゆきますが、
「上を向いて歩こう」の「もっと詳細な完全版」だって私は書くんです!
はっきり言って、「上を向いて歩こう」の2003/6/1版は、
書いた私にすれば妥協しまくった手抜きもいいところなんです。
人が難解だと受け止めないギリギリの所までしか書いていない、
もしあれ以上の深い部分を突き詰めて書くなら別の機会を待たなくちゃいけないんです。

なんで”あの坊さん”をモチーフにしたか、
Nに対する当てこすりに決まってる、そう決めつけたんでしょう?
私はそんなに度量小さい人間ですか?
公の本宅サイトなんですよ、そんなつまらん事で私は私情は挟みません。

「あの坊さんの言ってる事は簡単に言えば大きなマチガイだからです。」
時間の都合で昨日はくわしく書かなかったですが、
【日本人のそのほとんどは、
自分が満足じゃない時でも、幸せじゃない時でも、
人を幸せにしたいと思う思想や教えの方こそを受け容れようと無意識に育ってきてるんです。】

日本に生まれた私たちはまずは我先にと奪い争いあう貧困層の国々に生まれてきたわけじゃない、
人に意識を向けてゆく事、そうやって成熟してゆくだけの魂のステージにまで、
日本人の多くが登り詰めてきたから日本に生まれてきているんです。


日本人の多くが娯楽や食べ物、生活環境、治安、どれも恵まれているのは自身で登り勝ち取ってきたからなんですよ。
要するに、まず自分がと我を主張する精神段階をほとんどの人が卒業してきているから日本に生まれてきているし、
日本に住む私たちが日常で恵まれているのも私たち魂が登り詰めてきたその自然な見返り、
いわば一種のデーヴァの状態なんです。 日本人は地球に生きる人間種の中では、
いわば精神的に自分を磨いて登り詰めてきたエリートなんです。


だから私は言う、日本人の多くは人に意識を向けて成熟成長してゆく段階なんだと。
それ以前の段階の小乗な教えは今更人を我欲に走らせるだけのものなんだと。
日本人は知的にも精神的にも恵まれててあまりに優秀なんですよ、魂の質が。
【だからこそ、私の書いた紙一重、ミカンの話しの方に共感を覚える人の方が日本人は圧倒的に多い。】
ミカンの話し、あれはあの坊さんと考え方が正反対と言ってもいい。
自分で書いた後になって気づきましたが、ミカンの話は大乗そのものなんです、そこには人々のあいだに愛と幸せが生まれる。
○リアさん、もしあなたにミカンを分け与える人がいて、私が紙一重で話をまとめたように
その人が自分もお腹が減っているのに分け与えられたなら、○リアさん、
きっとあなたは分け与えてくれた人に愛を感じるに違いありません。
そしてもうひとつは、分け与えてくれた人が、自分がまず食べ、満足したあとに余ったからと○リアさんに分けてくれたとして、
○リアさん、嬉しいですか? その人に愛を感じますか?
その人に精神的な成熟を見いだす事はできますか?

余裕のあるときにする施しは施しじゃないんですよ。
人はそんな人をみつめては驕りを感じる事すらあるんです。
実際私たち日本人のその多くがミカンの話の方に共感を覚えるはずですし、
自分が苦しくても分け与えてくれる人と出会いたいしまた希望としてもそういう人物となって人からも愛されたいと思うに違いありません。
そして、人が愛に溢れて成熟してゆく方向性はどちらだと思います?
どちらの生き方だと思います?
まず自分が?それとも自分が幸せでなくても分け与える生き方?どちらだと思います?



それと、自分が幸せになった後だろうと幸せでない前であろうと、
人に何かをしてあげて喜ばれないとか、感謝されないとか、そんな気持ちをいだくのは、
自分の幸せとはまったく別モノなんです。
成熟していて幸せな人もいれば不幸せな人もいますし、未熟でいても幸せな人もいれば不幸せな人も世にはいます、
人に何かしてあげて感謝されないとこぼすのは自分の幸不幸とはまったく別なんです。
その人の魂が成熟してるか未熟かなだけなんです。
幸せになったあとに人に分け与えればいい、
こんな考え方をする人に限っていざ自分が幸せになったあと人に何かしてあげて人に感謝されないとこぼすのです。
それは元々の考え方や精神が未熟ゆえにです。

自分の幸不幸とはまったく別。

はっきりいいますよ、あのお坊さんよりも平均的な日本人の方が精神ステージはよほど高いんです。
お坊さんの格好をしてるっていう表面にばかり惑わされてはいけません。
人に伝授されてきた知識はあるかもしれません、でもその人の精神性とはまったく別。
小乗仏教が伝来している貧困層の国々の多くでは、仕事がないんですよ、
自然と昔から代々出家して人に崇められるのがエリート視されてきているんです。
そして、小乗は「自分の」解脱を目標としたもの、これは仏道に詳しい人間に訊けば誰でもそうだと答えます。
そしてこれが日本で小乗が尊ばれない理由でもあります。 大乗に残されている慈悲が見いだせないから。

あの坊さんをモチーフに話を進めた理由の主な所はまあこのあたりになります。
そして、あの坊さんの思想は成熟している日本人には危険でもあるからです。
中学生や高校生に小学1年生の教えで生きさせようとするものだから。
小学1年の教えはそれが必要な段階にいる幼稚園児に教えればいいことなんです。
退行させる教えは要らないんです。
人は成熟して階段を登ってゆくのが生きる理由でもあり生きる意味なんです、
自分自身がより本来の愛の姿に戻るために。



この先、人々が我欲に生きて退行していったなら人の未来は暗いんです。
あのお坊さんの狭義な教えを訊くよりも、
「アミ小さな宇宙人」を読んだ方が断然にいい。
あれは小乗とは逆、意識が人に向いている慈悲や愛が説かれている大乗そのものですからね。

教える立場にある人、人の上に立つ人は、
人に成熟成長を促すものを、注意深く、広めねばいけないんです。 エンリケ氏のように。
人にモノを伝えること、教えることは、だから責任がとても重いんです。


お坊さんのかっこしてありがたがられるからって、いいかげんな狭義な事を人に教えちゃいけないんです。
人がそれを真に受けて自堕落した分は、いつか自分が責任を負わなくちゃならない。

職業坊主だからそれらのカルマも理解してはいない。
だからああいう事を広める。




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今回これを記事として挙げましたのは、最近巷で流行っています、スピやニューエイジ、引き寄せの法則などで、
あまりに自分を甘やかしてくれる思想をウケ狙いで広めようとされる方が目に余るからです。

詳細は 甘いお菓子「光と闇の戦い」 や、甘いお菓子 「光と闇の戦い」続編 を参照のこと。


またこの記事では、人間には魂の成長段階によって、それぞれ相応しい教えと学びがあり、
場合によっては人を退行させてしまうことがあるのをお伝えしたく挙げています。


最近言われがちな、自分さえよければいいとか、ありのままの自分でいいといったもは、
とても危険な芽が潜んでいるのです。
もしある人がこれらを真に受けてしまうと、利己的な人間になってしまう者は当然数多くいますし、
そうなった人は、それ以前よりも精神性や霊性において退行しているということであり、
こうした甘えの誘惑に陥る人は、精神性や霊性において、陥るそれ以前よりも這い上がるのは困難となるのを知るべきです。
なぜなら人は、ぬるま湯をそうとは知らずに漬かり続けるからです。
こういった甘いお菓子の誘惑は、人間荒廃プログラムなのです。
甘言によっていいように操られ、堕落してもいいのですか?

最近はこうした、スピやニューエイジ、引き寄せの法則などを謡われる人たちの間では、
こうした利己主義、いわゆるエゴイズムをウケ狙いで広めようとされている方がいるそうですが、
それらを真に受ける方たちが一人でも減りますように。




今回の記事は、Cute Girls Japan にて、2003/9/21に書きました、
幸せを分け与えるということ
の補足のようなものとして、私個人の内輪な縁ある方に向け、2003/9/22にメールをした時の一部です。
記事内に個人名が伏字でありますのはそういう訳です。
この内容そのものは2005年、http://cgi.osk.3web.ne.jp/~lovenet/tubakikaoru/k0017.html に挙げてあります。
現在このCGIサーバーはハッキングに遭い、未だ復旧は致しておりません。
警察の捜査の進展具合によって復旧する考えです。





 私の記事で何かしらよいものがあると思われる方、
どうぞよろしくお願いをします。
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