私たちの行動の根底のすべては「愛」にあります
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私たちの行動の根底のすべては「愛」にあります
今日は過去記事のピックアップです。
この元記事は一番最初は、「CuteGirlsJapan」内のサブコンテンツであります、
「上を向いて歩こう」内に2001年正月にUPしたものです。
【 より愛されるために 愛 】
恋愛は一種の人間的な小さな積み重ねの訓練であって、最終的に研磨された時に完成し、
これに結びつくゆえに人間の愛と云うものは深い意味と高い価値を持っています。
遥か先のこの段階は「至上愛」であって一般が指す「恋愛」ではありません、
相応しい言葉が思い浮かびませんが、敢えて呼ぶとしたら博愛や大愛といったものかもしれません。
この一切すべての者を愛する者となる時に至上愛は完成するのですが、これに至るには段階があります。
愛する為には愛する者の欠点を自己の中にも内在する写し絵と捉えて許さねばなりませんね、
それではここで一つ簡単なテストをしてみましょう。
あなたの愛する恋人が突然あなたの大嫌いな人の姿になってしまいました、顔も姿も行動や性格までもです。
さて正直に答えて下さい、今までどおり愛する事はできますか?
身体的特徴ばかりでなく性格や行動、言葉、
こういった一切が今たとえにした人物と寸分違わずになったとしたならばあなたは愛せるのか?
たとえどう変わり果てようとも愛しているともしあなたが答えるならば更にお聞きします、
あなたの愛する人が突然容姿や性格、その他全てが変わり果てても愛せると云うならばなぜその者にだけ執着して愛するのか?
この問いは多少無茶のある事ですが非常に大切な部分なんです、
姿がかわり果てたならば愛せないと答えるならばあなたは相手が年老いて醜くなれば今の愛を持続させる事は難しい、
姿がどう変わろうと愛せると答えるならばあなたは人間的心の段階としては高みにいると云えますが更にお聞きしたい、
今愛する者がどう変わろうとも愛するならば、その他大勢の姿形や性格も全く異なる別の人たちを今愛してる者と同じ様に愛さないのはなぜですか?
2000年も終わりに近づいた年の瀬にこの心のテストを自分で作成し、実際に私が自分でやってみました、
愛する者の姿形、行動や性格すべてが最もいとわしい者であると仮定して。
うーん 難しい・・・ 正直答えましょう、今の私にはまだ無理でした。
このテストをしてみてどんな姿形に変わろうとも私はそのいとわしい者の姿や全てを愛せると答えられる方もおられるかもしれませんね?
しかしそれは嘘になります、その答えは偽善なのです。
愛せると答えたら偽善? これではテストは無意味、問いにもならず答えもないのでしょうか?
どのような姿形や性格の者に成り果てても愛せるかという問いですのでここではわかりやすくもっとも自分が嫌いな者、
最もいとわしい者を私はひきあいにしたわけですが、この嫌いな人物をこのままで愛せるわけがありません。
ここに行き着くにはこれを成す為の土台が必要です、それは全てのいかなる者も愛する以前に、全てを許すという事。
これをもってして初めていかなる姿形であろうとも愛する事ができる。
ではいかにしたら全てを許せるようになるのでしょうか。
私たちのミクロなる個における通常の恋愛は、もっとマクロな人間の完成という視点からみつめた途上のものであり、
私たちの心の成長の度合いそのものは愛の大きさにほかなりません。
それは人間的相対的な偏った執着が含まれた、一部の者を愛するという成長段階から全ての一切が同一であると知り、
差異なく愛するというゴールに向かう迄の途中の形態、この途上の形態こそが私たちが住む世界における一般に指す「愛」。
この心の成長度合いともいえる愛の大きさは目で見て測れるものではありませんから説明が困難ではありますが話を続けましょう。
利己心が強く愛の小さな人もいれば愛の大きな人もいるように、愛とは実際に育つものなのですが、
愛の大きさがある程度強くなってゆきはじめると、人は許す気持ちそのものである寛容心が愛と共に一緒に大きく強くなってゆくのです、
寛容心とは愛ゆえのもの、愛の側面の一つだからです。
そして私たちは実はどんな人であれ、この自己の中にある愛、恋愛をも含む全ての愛を実は日々大きく育てようとしています。
これはエゴの強い人であれ犯罪者であろうと一切の例外なく全ての人がです。
これを読まれている読者の中には、私は日常で愛など求めてはいないと言われる方も中にはおられるかもしれません、
ですがそうやって否定する事すら愛を求める一つの形態なのです。
例えば誰かが著者である私を嫌いとしましょう、これすらもその人にとって愛で満たされたいゆえなのです。
(注、私に愛されたいというのではありません。)
あなたは悲しい時涙する、寂しさを知り、痛みをも知る、これこそ愛を求めてやまないしるしなんです。
こうやって誰もが必ず日々例外なく愛を求め続けているのです。
そう、私たちは実はこの肉体的本能や人間的執着が根底である恋愛以上のものを何よりももっとも求め続けて生きてきたのです、
その求めつづける姿は満たされるまで続く渇望。
「私たちは実は一切すべてから愛されたい。」これは誰もが全てにおいてです。
一切すべてから愛されたい、これをわかりやすく言葉や文章にする事は非常に困難なのですが、幾つかの例えをしてみたいと思います、
これは心で感じ取るものであって、言葉や文章といったもので言い尽くせるものではありません、
ですので書き進める例えを何度も何度も読み直して下さいますよう強くお願いをします。
ある者が自分の欲する事をする、求める事を行う、これは愛されたいゆえになのです。
え? これではわからない? 確かにそうですね、では話を続けましょう。
ある者が恋人を欲しがる、それはその様に願い、その様に叶い、
その様に成り得た時の恋人との様々な生活が、「本来奥底で求めていたもの」を満たせると信じているからです。
その私たちが本来奥底に求めているものとは絶対不変の愛、絶対幸福と言いかえても良いかもしれません。
この自己の絶対幸福状態である全てにおいて愛される事を望むゆえに私たちは日常で様々な差異や不幸までも自ら生み出しているのです。
さあ意味がわかりずらいですね、例えを続けましょう。
ここではあるやくざが居たとしましょうか、このやくざはお金を求める為にある時は自己に都合よく暴力をもってそれを為す、
女性を求める時、ある時は正攻法に口説き、またある時は暴力であるかもしれない、そしてある時は欺瞞によって。
またある時は権力を求める、他人と競争をし、ある時はたくらみ、人を蹴落とす。
全ての思考と行いが、「愛」されたいが為に人は顕す・・・ 奥底で求めているものを掴む為に。
そう、私たちは何よりも心から求めているものを掴むために見誤ってしまっている、
全てが実は代替え行為。 だからこそ実はいつまでも満たされないでいるのです。
恋人を求めるのも
友達を求めるのも
お金が欲しいのも
出世をしたいのも
尊敬をされたいのも
立派な家に住みたいのも
立派な会社に勤めたいのも
美しいくありたいのも
綺麗な服を着たいのも
愛を終らせ別の人を求めるのも
嫉妬をするのも
憎むのも
争うのも
これみなすべて奥底で求めていた不動なる絶対愛に満たされたいがために。
殺人犯であろうとやくざであろうと例えどんな人であっても、
奥底で求めていた絶対愛に満たされた時、一切の悪行は消える。
もう満たされずに盲目となって他の事に求める事をこの瞬間に終える。
善い事も悪行すらも、求める愛で満たされたいゆえに私たちは欲望を放つ。
これは私もあなたもかわりない、求めてやまない欲の根底は清浄なり。
あなたがその様であるならば私もその様な者そのもの、
これを知る時一切のものに嫌悪する理由がここに消える。
私たち人間が求めている不動なる絶対愛を求むには同じく一切を愛する事、
一切を愛するには一切は清浄で差別がないと気づく事、
至るには、一切の人の成す事象は清浄なる欲ゆえであると知り、
清浄なる欲から発露する誤った悪行すらも許すと云う事、(行わせてはならないが。)
嫌悪が消え去る時、全てを許す自己を見出す、
いかなる者も許した時、私たちは一切を愛する者と成る。
一切すべてを愛した時、私たちは奥底より真に求めていたもの、一切すべてから愛される、
どんな悪人であれ、一切すべてを愛する者となった時、一切すべてに愛されて罪は消えさる。
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- 2011.08.01 Monday
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- 23:30
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- by 愛上王
この記事は今から10年前、
私が初めて「見性」に達した時に書いたもので、
普段はこの心境には遠いです^^;