世界に溢れる愛という名の血液

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 今日は過去記事のピックアップです。
(管理人の別サイトであります、「CuteGirlsJapan」で長らく公開をしてきました「上を向いて歩こう」より。)


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 【 ひとやすみ 世界に溢れる愛という名の血液 】

 私はこの書を書き進めてゆきながら、人間の資質とか対人間における利己や利他といったステージは、その人の愛はもちろん、
成功や幸福にそのまま直結してるのだと理解しはじめた頃から人間という種そのもののステージに目がゆくようになりました。
人間という種そのものの全体的な精神ステージというと、
これはもはや愛や個人的な恋愛の域からは既に逸脱してしまっているように思われるかもしれません。
しかし逆説的にものをみるならばこれらの視点、人間という種そのもののステージの視点からみつめてゆくと、
これまで書き進めてきたものはこれら人間が到達してゆくべきステージに必要不可欠な、辿るべき道である気がしてなりません。
ここでは人間の精神性のステージと愛によってつかむ事のできる、この世界に溢れる血液、愛の具象化した顕れのひとつである金銭についてお話しします。

 まず初めは現人間の精神性のステージを理解する助けになるものを。
エジソンは昔、電流を使って人工的な明かりを作ろうとしました、これは私達の知る通りエジソンの努力は実を結び、電球として実現をしました。
しかし当時の人々の目からみればこれはもう狂気の沙汰だったかもしれません。
電気を応用すれば人工的な明かりになるだろうという発想は、実現されるまでは想像の範疇を越えないなんら根拠を示すものがない。
今でこそ我々は電球をみつめてその明かりのメカニズムそのものは理解できなくとも、
その明かりのまぶしさになんら疑問を抱かずに当然の事としてはいますが、
きっと実現されるそれまでは、人々の目からみれば理解を超えた途方もない事と思われた事でしょう。
 エジソンとグラハムベルが同時期に研究していた遠く離れた人と会話をする機械、
電話機もそうで、これも人々の目からみれば狂気の沙汰だったに違いありません。
現実は努力が実を結んでふたりとも完成し、特許出願で一歩早かったベルの方が電話発明者として後に名を残すことになる。
音や声を記録し、いつでもその音や声を再生する機械、蓄音機もそうです。
どれもすべて実現するまでは理解を超えた狂気の沙汰にしか人々の目には映らなかったことでしょう。
 これら数々の発明を成し遂げたエジソンがその晩年の最後に挑んでいた発明はなんと霊界電話であったといいます。
死者の発するバイブレーションと生きている人間の発する声、これらは皆同じ周波数の高域低域の違いなのだろうという発想の元に研究が進められていたそうです。
死者と会話をする装置、未だ実現されていないこの装置を作ろうとしていたエジソンははたして気がふれていたのでしょうか?
実際は晩年死が近づいていたエジソンが死後の世界に興味を持ち、これらに挑戦したのだろうと察しています。
しかしエジソンは霊界電話を完成させる前に他界してしまった。 (設計図が一部が残っているそうです。)
それは霊界電話を完成させる事は世にはまだ早いとしている高位の知性体の介入によりエジソンの生存中には日の目を見なかったのだろうと言われています。
これと似たような話に、エジソンよりも更に昔の人間が電球を発明しそうになった時も、
その人間は突然他界してしまったのだという話を以前ある書物によって読んだ覚えがあります。
高位の知性体の介入により世に相応しい発明となるまでは実現させられないのだと云うことなのかもしれません。

 エジソンの発想は正しかったのかもしれません、死者と生きている人間の発する声は周波数の異なるだけの同じものなのだという発想。
これを元に研究が進み、もしも完成していたとしたならどうなっていたでしょう?
霊界電話が普及していたとしたならば。
答えは明白です、死後の世界に憧れたり、先に死んだ恋人を追いかけるように自殺する者が激増していたに違いありません。
現人間の精神性の発達度合いからみれば害の方が大きいのです。
無論機械そのものが悪なのではなく、我々の心が追いつけずにそのような要素を生み出してしまうわけですが。
このあたりの現人間の精神性の発達レベルが、私達に霊界電話の存在がまだ時期として早すぎると考えられるゆえんなのでしょう。

 これはある国でおきた話になりますが、現実にあった話として昔、オーソンウェルズによるラジオ番組で火星より宇宙人が来襲してきたという内容のものが放送されたことがありました。
もちろん単なるドラマにすぎず、ラジオの聴者のそのほとんどは作り話であることを理解していたものと考えられるのですが、
一部の人々はそれを作り話と考えずに本当に地球に火星人がやってきて今まさに侵略が始まったのだと気が動転する者が続出したという話があります。
問題はその後の事でした、これら混乱を招いたのはラジオという機械が悪だからなのだと短絡し、
単なる電波受信機でしかないラジオを撲滅せんと至るところにあるラジオというラジオを叩き壊す運動が起きたのです。
これはある国で実際に起きた話であり、ラジオ全盛の頃のできごとらしいですが、ラジオドラマであるという事を忘れ、
自身の短絡的思考による早とちりが招いた騒動であるとは認めず、この、ラジオそのものを悪であると転嫁した人々、どうでしょう?
この現代で同じようにオーソンウェルズのドラマ並に迫真に満ちたものがラジオで放送されたとして、
同じように混乱を招いて大騒ぎするような精神的発達段階の者がはたして居るでしょうか?
まして騒ぎの後にラジオ撲滅運動を興し、世界中のラジオをバットでたたき壊す行動にでる者が居るでしょうか?
答えは否でしょう。
現人間はこの騒動の時より幾らか発達しました。
様々な時代には人々という種そのものにも発達の段階があるのです。

 種にはその時代に添った精神性の高低があるということをおおよそお分かり頂いたと思います、
それでは肝心の金銭について話を進めてゆきましょう、金銭の存在する意義、存在理由も含めて。

 金銭とは争いなく平和に欲するものを得させる手段です。
そして金銭そのものは愛の低次元における具象化とも言えます。
それは、与えるなら自然それは得られるという愛そのものの因果の低次元における顕れ、具象化であり、
高次である本来の、与えそして得られると云う遙か高き純粋なる愛という精神ステージを擬似的に我々人間に学ばせる手段ともなっているのです。
すると金銭を労働によって得ずに奪うという、金銭のルールから外れた悪事は金銭というものを概念として認められる種以前の段階の行為となります。


 金銭という概念がその種に与えられるそれまでは、得るためには殺し合い奪い合うというステージにあります。
生き物の進化に合わせてそれらすべては境遇としてみずからが与えているからと言えるでしょう。
大昔の恐竜は得るため食べるために他を殺して奪っていた、それは力による生存。
恐竜の時代が過ぎ去ったあとの原始人もそうでした、争いは常であった。
 これはその種の精神性の発達度合いに照らし合わせると、金銭という概念が派生する以前の種は、
得るために奪う、殺し合うという「利己中心」が自然な概念であり、それを疑う事すら知らない。
食べる物が何もないなら生んだ母であろうが同じく生まれた兄弟であろうが共食いをしていた。 
恐竜の時代において生きる事は奪う事だった。
この境遇にみずから身を置いていた種の発達段階においては、そのみずからが求めた掟に相応しく自分自身もその掟に支配されます。
自分自身も更に獰猛で、得るために手段を選ばぬ者の食料となるのです。
これは、得るための因果のスタイルは、「得るために 奪い、奪われる」という未開なスタイルと言えましょう。
後に人間が生まれ、それまでの概念である生きるために奪い合うという概念は未だ引きずりつつも、
新たに生まれた種は得るために争いを起こさずに得る方法を学びます。
初期のその様子は交換という形です。 そのスタイルは利己利他4分類に当てはめるならば「利己利他混在」になります。
「得るために 与え、そして得られる」 という、得るための因果のスタイルが平和的なものに徐々に変化をしてゆく。
これが金銭の始まりだ。
現人間は大まかに云えば今この段階にいます。
得るためには奪い殺し合うという段階であった「利己中心」から見つめるならば到底理解不能なこの「利己利他混在」という段階に生きる我々も、
更にその奥で待っているであろう「利他」の段階は理解に苦しむものかもしれません。
現人間のこの「利己利他混在」と言えるステージは、厳密に云うならば、「与え、そして自然得られる」ではなくて、
「得るために与えよ」になります。
得るためという根本動機がここにあるわけです。
この現人間の常である利己心を内在した「利己利他混在」のステージの先には、「利他」が土台となり恒常になる生活が待っています。
いわば種の精神性進化過程のこの先の途上にあると想定されるステージ。
この「利他」が我々人間にとってなんの疑いもなく常であると認識するようになる頃には、
「利己利他混在期」であった時のその象徴である「金銭」は人々の概念から消えるのです。
それはお金が無くなるということ。
得るために奪うという「利己中心」から離れ、
得るためにはまず与えるという「利己利他混在」からも離れ、
「利他」による、すべてにただ与え尽くすというステージでは、過去の遺物である「金銭」はなくなるのです。
「利他」であるからすべてはただ与え合い、与え合うゆえに求むという必要がなくなる。 すると求む為の道具は要らなくなります。
ただ与え合うというステージ。
さて、この「利他」というステージを現実化した国々も民族も今のところ地球上のどこにも見あたりません、
するとこれは理想論であって実現はされやしないものでしょうか?
「利己中心」が常であった奪いあい殺しあうステージに居た者が見つめたステージである「得るために与えよ」という「利己利他混在期」のように
鼻で笑ってしまうおかしな事でしょうか?
否、人間は今急速に進化している時期にあり、可能性はあると言えます。
千年前や二千年前は現代と比べるならば種としての進化は緩慢であったように思われますが、
現人間は精神性の発達を助ける刺激に恵まれているのです。
地上においてあらゆる種の中で、今の人間ほど急速に進化している種は他に見あたらないのです。
さて、「利他」が恒常となる種の段階は本当にやってくるでしょうか?
やってきます、それは遙か先かもしれない、しかしこの世界はいずれ必ずやってくる、しかしそれには条件があるんです。
人間はこぶし固めて人に向かえば、
相手は地面に落ちてる石を拾って構える生き物ですね。
何しろ石ころの方がこぶしよりも堅く痛い、利点に目を向けるからです。
するとさらに石に対抗するために棒を手にし、
そしてその棒に対抗するためにどんどん武器は強くなっていく。
棒なら剣、剣なら銃、ライフル、大砲、戦車、爆弾、飛行機だ戦艦だってなっていき、ついには終着点に行き着きます。
その終着点は自分すらも滅ぼしてしまう兵器に手をだしてしまうと言う事。
最後は相手と共に自滅してしまう兵器、「核」にまで手をだす。
行き着くまで果てがない。
これが人間、悲しいけど人間、
この予測される結果を見越して争いをやめるだけの知恵が本来人間にはあるんです。
目の前ばかりでなく先も見て平和を選ぶ事が人間はできるんです。
しかし人間は愚かだからこそこれらを続けてしまう。
続けていった場合はその答えを自分たち自身で「果として実際に味あわねば省みる事ができません。」
この結果を見通して未然に防いだならもっとも望むべき条件を満たせます。
もし人間が愚かなままであったとしても、こうしてみずから体験したときに他の種とは違って知恵があるからここで初めて省みる事もできるのです。
終着点が起きた時にようやく自分たちの愚かさを悔いて条件を満たすようになります。
争いがばからしいものである事に気づいてようやくやめるようになるんですね。 この時に。 
そして人々はいずれにしてもどちらの結果で辿ろうとも誰もが助け合うという種になります。
この時人間という種そのもののステージが揚がってゆくのです。
そしてこれらがその種の恒常的なステージになった時には金銭の役目はついに終わります。
金銭は種の進化のステージの中において一種の知恵であり擬似的な学習を我々種に学ばせていたものなのだとこの時悟るのです。

 金銭という概念を我々人間に与えたのは、言うなれば争いから抜け出たいと我々が進化の階梯の中で自分自身に求めたという、
自身の精神ステージの進化のたまものだったのです。
何をしてでも奪うというステージである種の段階においては金銭は存在しません。
猫に金銭は存在しませんし、犬や猿にも金銭は存在していない。
どの種の中においてもその種にふさわしい境遇や知恵、そのステージに相応しい秩序を与えているのは実は我々「魂」自身なんです。
私の幾多とあった永い流浪、転生の最中では、猿であった時は求める物を平和裏に解決する種の知恵、進歩の精神性に直結しているその「金銭」を知らなかったのだ。

金銭という概念、すなわち「得るために相応のものを与えよ」というステージそのものは、
与えあい愛し合えという「利他」のステージに到達するための必要不可欠な通過点なのです。


これらは地上に生きる種である「人間」そのものがステージとして到達するにはまだ時間がかかるかもしれません、
しかし個人においては容易に実現をする事が実は種全体そのものよりも簡単なのです。
「利他の概念に基づいて精神性を向上させてそのような生涯を送った者は、その精神性に相応しい世界に必ず転生をします。」
地上における種の進化が成されるまで待つ必要はなく、すみやかに相応しい地にその魂は住む。
もちろんこれらは輪廻思想が根本にあるものなので、それ以前の唯物観のみで生きるステージである「利己中心」が常な場合は承け入れられる事もないと思いますが。

■ 金銭やあらゆる物質、人間生活に欠かせない豊かさといったもの、
私達が本来心の奥底で求めている真の幸福である不動なる絶対愛や、日常的な生活における様々な利益は、
実は私達一人ひとりの為にしっかりと用意されていて、この世界にそれはまるで血液のように溢れているものです。
それら人が望む豊かさ、精神、物質問わず、人に幸福を与えるものの正体は、
本当はその人の愛の現実世界に具象化した顕れであり、
人がこれら求める豊かさと縁遠くなってしまうのは人々が利己に傾いてゆき、
それらを自身の手によって自ら切り離してしまっているからなのです。
 もし私達が人々に愛や金銭、善きものを外側である人々に向けて放つなら、
それは益々自分の許に流れてやってきて枯れてしまうことはありません。
血液とは本来そういうものなのです、一見内から外に向けて放ち、枯れつきてしまいそうに見えても、
流れは自分を通過点として通るように益々自分にも上流から流れてくるのです。
たとえば血管のある場所で流れをやめてしまい詰まったとしましょうか、流れはそこでとまり、人々には流れていきません、
当然自分を満たす新たな血液も自分の許にはやってこないのです、愛という血液の流れを自分で止めてしまっているのですから。
■ もし人を愛し、人々を愛し、そうやって愛する人を手に入れ、幸福となってゆくのなら、
あなたのその愛の顕れは現実的な金銭としても具象化してゆきます。
愛は今お話したようにこの世界に溢れ流れる血液のようなものです、
愛を人々に、外側に流れてゆくように、みずからが得た愛の具象した金銭も惜しみなく人々に還元するよう与えてください、
人々に向けて放つなら益々自分の許に流れてやってきます。





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