アセンションまで残りわずかな時間を過ごす最良の生き方 大いなるカルマと「未来予測」

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 アセンションまで残りわずかな時間を過ごす最良の生き方 大いなるカルマと「未来予測」

 私たちにはもう時間はあまり残されていません。
その残りわずかな時間をどうすごしたらよいのか、
そのためにこの古い原稿をここに挙げます。
  
 今日は過去記事のピックアップです。
(管理人の別サイトであります、「CuteGirlsJapan」で長らく公開をしてきました「上を向いて歩こう」より。)
著作権は 愛上王 に帰属します
転載や引用、再配布は固くお断りします

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 【 マクロなる因果 】

 本文では趣旨からはずれるように思われるので詳しくは触れませんでしたが、実は個におけるミクロなる因果が見えてくると、
集団や民族、その時代に生きる者たちに共通するマクロなる因果と云うものがあることに気づきます。
因果の冒頭でお話ししたように、この本書を読まれている方は偶然ではなく必然の縁によって読んでいるのだとお話しました。
しかしあなたはこう考えているかもしれない、
大勢の人々にはこの本書に目が触れたのは因果があって読み進めている者もいるかもしれないが、
大多数の中の一人にしかすぎない私は単なる偶然だとあなたは思われているかもしれません。
偶然というものは実はありません。
そうでなくこれがそこに生きる人々の集団と時代の因果なのです。
民族や地域、時代、こういった中にも人々のマクロなる因果があると言い換えればよいでしょうか。
西洋の中世における異端尋問や魔女狩りといったものや、日本の戦国時代といった時代的な中における人々の因果もそうですし、
現代の都会や地方といった出身地の違いといった生活環境からくる価値観や成長の仕方と云ったものまでも含む、
大きな枠の中で私たちは自らが放ってきた原因と結果の法則である因果に従って生まれてきているのです。
 日本においては戦前、男尊女卑であったのはその時代における因果があって、卑しいとされる者と尊ぶべきである性別とがあるという
現代では考えられない価値観がまかり通っていました。
これらのそれぞれの身に自分を置いて生きねばならなかった人々と云うのは、
それぞれの持つ因果を集団で顕して清算する機会としてその時代に生まれたのだと因果は教えてくれます。
日本においてこの男尊女卑の集団的、民族的な因果は、この時代に生きた大勢の人たちの清算によって解消されました。
現代では考えられない思想や人々の価値観、習慣、行いといったものや、あらゆる時代における人々の幸不幸、
飢饉や自然災害、これらはそれらを経験し、自らが撒いた因を清算する為に顕れているということです。
 ではなぜ因果によって私たちは個別なものや集団的な因果を持つに至ったのでしょうか、
これはさかのぼって考えて行くと万物創世にまで行き着くように思われます、
人間、いえ、すべての魂というものは神に似せて創られたと古代より言い伝えられてきていますが、
その中でこの件に関して一際関心を惹かれる興味深い話があります、
それは神に似せて創られた私たち魂の愚行の説明に成り得るものです。
私たちすべての魂は神に似せて創られた、しかし誰もが神と同じように個性として「行う自由なる意志も与えられた」と。
意志、行うという事、これこそが原因と結果である因果そのものであります。
ゲルク派のチベット死者の書には、人間が少しずつ輝く者から自己の意思、
因果と云う行為によって堕落していった様が描かれていますが、
因果を撒いて自ら摘む者となる更に以前にも同じように意志を行っていた私たちがあると考えられます、
この転生の繰り返しはやがて何色にも混ぜ合わせた絵の具のように同じ傾向の人々がそれらを清算する機会として地上にやってくる、
私たちの全ては自分の意志と行いによる果という、他に向ける事のできない個々の責任があるのです。
さて、話は現代のこのたった今に戻しましょう、時代と多くの人々の集団的潜在的な因果というものは発芽する為の土壌が必要となります。
今この本書を多くの人々が触れて読む機会というものは、我々の集団的な因果の発芽すべき土壌と時期とが揃って顕れたのだと言えるのです。
それは私たち現代に生きる者にとって、これまでの世界中における様々な貧困や戦争といったものから抜け出たいと痛切に多くの人々が抱いてきた果がやってきたからだと言えるものだからです。
こういった貧困や戦争から生まれる人々の願いという因果、因となるものが人々の心に顕れ、
それらが一つの果の顕れとして愛を著そうとする書物という形を因果はとる場合があるのです。
それはある時は訴えであり潜在的な共鳴者を眠りから覚ます引き金かもしれません。
そして実を言えばもしも著者である私がこの世に生まれていなかったとしても、この果はこの世界に顕されていたと考えられます。
私でなくてもよいのです、例えば私が今日死んだとしましょう、この世に具現化せずにおれない果はそれでも必ず顕れます、
私以外の誰かが必ずその顕れるべき因果の果を意識無意識に関わらず顕そうとするようになるのです。
これらマクロなる因果は、まずミクロなる個々における因果を理解せねば見えてこない理解に苦しむ因果かもしれません。
著者である私がこれらを書くなり書いたものをこの地上で顕すなりといった事は、私でなくともよいと申し上げたように、
必ず因のある顕れざるおえない果を果たそうとする者がこの今を生きるこの地上に現れますから実を言えば私はいつ死んでしまっても構わないのです。
無論私自身の徳行として捉えるならこれら人々に愛といったものに目を向けてもらい、
一人でも多くの人々が愛と幸福で誰もが幸せに暮らしてゆくお手伝いができるならばそれらは私の個としての徳でもあり喜びかもしれません。
そしてもしもまだ生かされて生きることが許されるならそれらを続けてゆくことでしょう、
しかし私は私がもし死のうとも必ずこれらを為そうとする者が現れる事を因果によって理解しています、
ですから私はいつ死んでしまおうと後悔なく生まれてこれてよかったと満足してこの世を去る事ができるにちがいありません。
さて、私がいつ死ぬ死なないという縁起でもない話はこの辺で終わりにしまして、
現代において世界中のあちらこちらで人々の心の変革のひとつとして愛を強く求めるという風潮、この今現在の因は果として今後どのように結ぶでしょうか?
未来において誰もが互いを支えあい、助け合う、愛に基づく生き方が普遍化する時代が現在の因によってやってくることでしょう。
その時、今この現在における利己主義の蔓延した世界の基本的な価値観といったものは、
今現在の我々にとって過去の遺物である男尊女卑のように前時代的なものなのだと誰もが疑わずに考える時代がやってくると云えます。
そのような時代がやってきた時には私もその時代を愛する者と共に生きてみたいものです。
さて、果というものは因がなければ生じませんし、十分な土壌も必要です、
これら理想郷のような時代が遅かれ早かれやってくることはマクロなる因果を見通して見えてくるものではありますが、
しかしそれらは一人一人がそれら愛に基づいた心と行動を示して行かねば花が咲くのもいつになるやらわかりません。
もし今これを読まれているあなたが本書を頼りに愛と幸福を掴んだなら、
愛に基づく心や生き方といったものが私達人間にとってもっとも必要なものなのだと痛感される事と思います、
そうやって求めてやまなかった自分自身の愛と幸福をつかんだなら、身をもって行い自身に掴んだように、
触れる人々や出会う人々にそれ以降も愛と善意をもって生きる事をあなたに望みます、
それこそが私たちが真に望む誰もが愛し合い支えあう世界に進む為に必要となるものなのですから。
2002/1/13 愛上王




Copyright (C) 1996-2003 愛上王 All right reserved
 この記事は「上を向いて歩こう」の中でも巻末部分にあたり、
巻末部分のほとんどは、私はいつ死んでも後悔をしないようにと、
遺言の意味も兼ねて記しました。
そういう気持ちにでもならないと、恥ずかしくて書けないものって、あるんですよ。

というわけでして、この記事には当時、自分としましては、とても大事なエッセンスを詰め込んだつもりで書きました。
今現在、私たちにはもうあまり時間は残されてはいないかもしれません、
ですが、もし、私たちが次世代の人類として生き残るのなら、
それは、「誰もが互いを支えあい、助け合う、愛に基づいた生き方を当たり前とするようになった時、
その時こそ私たちは進化をし、新しい世界を迎えられるのだと信じています。」


 私の記事で何かしらよいものがあると思われる方、
どうぞよろしくお願いをします。

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