文を書く時の私の悩みのタネ

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 文を書く時の私の悩みのタネ

 「偽霊能者の特徴 理由や根底、道理説明の希薄さ」では、
その説かれている内容に根拠や理由がほぼ省かれて書かれているケースは
パクリ型であったり、空想型なのだと記しました。
もしその説かれる文が、自身で思索し、掴み得た内容であるならば、
本来はきちんと道理に沿った話にまとめる事ができるはずであると。

実はこれ、説かれる内容がおとぎ話でもない限りは、ほとんどのケースに当てはまりますが、
どうしても道理に沿ったまとめ方ができないものもあるにはあります。

たとえば、私が1996年6月、今から数えて13年前から書き綴ってきた、
「上を向いて歩こう」の中で重要な柱として扱っている、「因果」。
いわゆる「カルマ」と呼ばれる、この大原則、大法則を、
どれだけ長年に渡り実証検証をし続けてはきてみても、
肝心な最後の部分に突き当たった時、言葉では言い表しきれない事に気づきました。
(上を向いて歩こうの原稿上、因果に順ずるものや相互関係にあるものも含めて。)
(私が長年「因果」に取り組んできた様子は、私の個人日記サイトや、
楽屋裏サイトに一部はその様子が綴られています。)

もし、今これを読まれているあなたが、「因果」という法則を、
誰が読んでも100%納得し得るものとして説明をせねばならないとしたなら、
あなたならどうしますか?

私は「因果」と言うテーマを、自身が柱として扱っているわけですから、
当然ながらこれに挑戦し、奮闘をしてみた時期がありました。
当時の楽屋裏日記をここに抜粋しましょう。

(所々に「上を向いて歩こう」の原稿の原型となった下書きもあります。
この楽屋裏サイトや個人日記サイトでは、時たま暴れてますが、ご容赦をw)


http://www.osk.3web.ne.jp/~lovenet/love/sitagokoro/

2002年8月22日

脱線しましたので話を元に戻しましょう。 本題はなんでしたっけ? ああ、書き方の表現で苦しんでいる、でしたね。
物事の、そのほとんどの本質は一言で言い表すことが可能ではあるが、受け止め方、いわば読解は人それぞれまちまちになる。
すると具体的な詳細な書き方が必要になってくる。
しかも本文は抽象論でなく日常誰にでも活かす事の出来る法則であるから、これはもう具体的に話し、読者に呑み込んでもらわねばならない。
因果という法則が、その因と果となって顕れる様子は様々な比喩をもって本文でも例えてきました、
放った因は果となって自身に還る、しかしそれはなぜなのかと問われるならば返事に窮してしまう。
いや、実は確たる確信をもって答えることはできる、が、それは理詰めで説得できるものではないように人々の耳には聞こえてしまう。
「いわば放ったエネルギーの反動によって元に戻ろうとするのだと。 なぜ戻ろうとするかと云うならば、それは元の位置に戻ることによってバランスを保とうとするからなのだと。」

しかしこれは、理詰めのようでもあり、しかし理詰めとして説得性を持ち得ない。
「だからそれはナゼなのか」、と。
このあたりに不可視な法則に対する人々の不信感があるのかもしれません。
しかし、法則があると信ずる事、発見する事、実際に体感する事と、その法則の実在性を証明することとは別のものであるような気がしてならない。
ニュートンは引力の法則を発見した、が、それはなぜなのか、なぜ引力が存在するのか理由を明示しただろうか?
地球は丸いと唱えたコロンブス( ガリレオだったぜ ;_; )はなぜ地球が丸いか理由を知ったであろうか?
否、
ただそこにそれがある事を知り、発見したのだ。

ここで私は思う、こうした法則に基づいて話を展開してゆくことは、どちらかといえば理系の説明のような伝え方が主だってきてしまうのではないだろうかと。
法則、それは作用と効能であり、言葉のあいだとあいだに情緒的なものを盛り込んでゆけない、何しろこれはエッセイでもコラムでもないのだから。
第二部からは特に、書き方がどうしても要点要点で固めてしまう進め方になってしまっていると自分でも強く感じているのです。
要点をぼかしてしまうおそれのある言葉はできるだけ省いて、読解さえしてもらえるなら直に伝わる理系の説明文のようなスタイルにもってゆこうとしているのを自分でも感じているのです。
この点についてはかなり前から自分でもどうしていいのか悩んでいるのです。 (;_;)
情緒的な雰囲気で話をすすめてゆく事が自然とできる食べ物でたとえている話は他のものとくらべて評価が高いのですよ。
イチゴでたとえた欲求の話、
ミカンでたとえた紙一重の話、
愛するからこそ愛される、与えるからこそ与えられるのだと伝えた長い箸の話。
理系の理詰めさで伝えてゆこうとするという、読解の混乱を避けるために情緒的な言葉の無駄を省いた、いわば説明文になってしまっているものは、食べ物でたとえたほどの評価ではない・・・
これに気づいてからというもの悩んでいるのですよ。 (もっとも、食べ物でたとえた話の方が格段に評価が高すぎるのかもしれないが)
因果や、その正体が愛に基づく視点である正見、どちらもその法則的な実際的な説明が必須になってくる。
それぞれの話はその実際的な効能を直に伝わるべく説明文のスタイルになっている所に問題がある。
まさにこれが悩みの種、だからこそ校正してゆくと本文メニューで公言もした。 でも進まない・・・ (;_;)
それとも、他の話までも食べ物でたとえた話と同じぐらいに評価を得ようとしている事自体に間違いがあるのだろうか・・・・
それぞれの話には無駄なく、その話の持つ伝えるべき真意は伝えてはいると思う、欲張りなんだろうか・・・

これを読んでいるあなたにぜひ教えて欲しい、自分で書いたものっていうのはさ、客観的になったつもりでもよくわからないんだよ
どうしていいのかわからないんだよ
自分の背中はどうしたって見れないんだよ
批判であっても構わない
辛辣であったって構わない
それでこそ人に読んでもらえるものが世に送り出せると信じてる
文章の表し方、文中にあるいけない表現、なんだっていい、
もし気が向いてくれて、暇な時間があったら是非辛辣な感想を寄こして欲しい
心からの願いだ。


私は当時こうして批判をしてくれと叫んだが、
誰ももったいぶってしてくれない:_:



「因果」ようするに「カルマ」は、
今現在は私の中で一つの解答が出ています。

それは、仏教などで指す所の「悟り」にも似た、
その状態状況を言葉で示そうとすると、
途端に不完全なものになってしまい、
答えが答えではなくなる。 というそれに似ています。
「悟り」などの説明は、自と他といった相対の世界のものではなく、
一元の世界を表しているもの。
それを言葉などという、
相対の世界に頼った文で表す事はほぼ不可能だからです。


こういった、おそらく自らが体験をしない限りはきっと理解ができないものを、
「説明」という方法で表せるはずがない。

しかしそれでも言いましょう、
それであっても、
大抵の物事はこの相対の世界での出来事であり、
できうる限り分かりやすく説明をする事ができるのです。
(それが偽霊能者の指す神界であれ霊界での話であれです。)


もし、人に何かを説く、
もしくは何か説かれたものを読み、理解をしようとするならば、
それらの物事を左脳で理解ができるように、
それらの文を自分で変換をしてみてください。
瞑想や断食など、インスピレーションのように沸いてきたようなものであっても、(右脳的なものであれ。)
私はそれらを、読む人ができる限り噛み砕いて理解ができるようにと、
左脳で読み解けるように合理的に展開をするように心がけています。

余談ですが、私は説明力、説得力のある文だと言われる事がありますが、
それはこうして左脳で理解できるように、
一旦文を頭の中で変換したものを書いているからだと受け止めています。

もちろん、すべてが左脳で理解できるものに変換ができるとは限りませんが、
それであっても物事の9割以上は、理に適った合理的な表現の仕方ができるはずです。










楽屋裏サイトである、 「椿薫の言いたい放題」は、
1996年から続けているサイト、Cute Girls Japanの、
上を向いて歩こう縮小版の、メニューの一番下に入り口があります。

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