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世界に溢れる愛という名の血液 & 金銭という生きる貯金

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 世界に溢れる愛という名の血液 & 金銭という生きる貯金

 前回の記事では、長文になりすぎてしまうと判断し、割愛をしていました部分、
【 金銭という生きる貯金 】
【 ひとやすみ 世界に溢れる愛という名の血液 】
この2つの記事を挙げておきます。
ぜひ、前回記事の中で挙げてあります、【 より愛されるために 愛 】と、こちらの2つを繰り返し読まれてみてください。

今回の記事もしばらくしたらそのほとんどを一旦読めなくする予定です。


 【 金銭という生きる貯金 】
 前述しました寿命と同様に生涯の中で得られる金銭も、生まれたときに前世で培った奉仕の因果によってその量は決まってはいます。
ですがその定められた量に加算してゆくことは、因果による人々に同じだけの奉仕を積む事によって可能となります。
ここでは人間やあらゆる生き物、魂は、その存在を利他として働かせる全宇宙というひとつの有機体の中の1細胞のごときものと受け止めて頂ければよいと思います、
これらを理解する手助けとして少し前置きをせねばなりませんが、
愛とはこの二元論の相対の世界で表面上は分離している他者との同化を求めるものと云えます。
しかしこれでは簡単にまとめすぎていて説明が足りませんね、
ではこうしましょう、あなたは愛する人がいます、もし現在いないなら居たときを思い起こしてください、
あなたは愛する人の喜びも苦しみも分かち合いたいと強く強く欲求をしてはいませんでしたか?
あらゆる感情思想の中で、そして誰の中においても最高位である「愛」は、あなたにその愛する者との同化を強く促していたはずです。
その人が喜べばあなたも嬉しい、その人が悲しめばあなたも悲しい、
愛する人が事故にあって不自由になれば替わってあげたいとさえあなたは「愛ゆえに」想う。
この時、あなたも、私も、存在するすべての魂は利他としてその存在を働かせています。
この相対の世界において表面上、表象上は確かに分離した者同士であるので利他の形を形態としてはいますが、
あなたのその愛、その利他は同化したいと云うのが本質であることは理解頂けると思います。
同一化、それはこの相対の世界においては利他としてその働きを示そうとするもの。
愛する者と同一化したいという愛の表れは、私たちに私欲を起こさせないでその本来の存在の意義を発揮させうるものなのです。
それが利他として全宇宙の中において1細胞のごとく他の為に存在できる理由であり、また存在する意味でもあります。
そしてこれが肝心なのですが、それら利他、人々に愛を全うする時に私たちは放ったものを求めずとも同等同質のものを自然得られるし事実得ているのです。
これらを善性の因果と言います。

利他、これはすべてに対して益として利する事、これが各々1細胞の存在意義であり、
その存在の愛のしるしであり、存在そのものは本来愛なのです。

  書き終えて数日たった今、この部分を自分で読み返してみました、とても重要な事をさらりと書いてしまいましたが、
この部分は見える人と理解できない人に大きく別れると思います、
もし後者なら、
人は自分に一元の如く、下心なくと云えばいいでしょうか? 皆誰もが愛をもって接して欲しがっているのだと第一部に書きましたが
それを読み返してみて下さい、そして自分自身本当は人に何を求めているのか考えてみて下さい、
実際はここの部分に関しては言葉で言い表せきれるものでなくて自身がそのステージに自力で這い上がるしか確かめる手だてはないのです。
しかしそれでももし確かめたいと言われるならば、−−− (懐疑心、多いに結構です、確かめるにはまず疑問がなければ始まりません。)
類推推理で確認してもらうほかありません。
そのステージを常に維持している人たち、でもそれら私達の目で見て類推推理に当てはめるに相応しい人物となると、
もはやありがちな人間心で行動している者ではなくなっている人たちになってしまいますが。


 今お話しました事は第二部において詳細をしました因果を深く理解し、日常の中でそれら因果を様々な角度から正確に捉える習慣が
身に付かれた方にはもはや説明の必要もないものではありますが、
ここではこれらその全宇宙の中における各々が1細胞のごときもので、
その存在が愛という他のすべてに利する事にその本来の存在意義があることを人間の身体にたとえながら話を進めましょう。
 突飛なたとえになってしまいますが、人間そのものを一つの小さな小宇宙とここでは想像して下さい、
実際の話として人間は小さなミクロコスモスであって、この私達が住む宇宙となんら変わりはしないものなのですが。
さて、私達には目があり手があり足もあれば内蔵や血管もあります。 
これら各々の器官をそれぞれ星雲なり太陽系のような微細な部分宇宙と捉えて想像して下さい。
その部分宇宙の細部には星があり衛星があり、それらを支えるように有機体として様々な生き物も住んでいると。
その星がその固有の1細胞として機能するために地表には植物が生い茂り、
悪性の細菌を除去するための白血球に相当する天敵として過ごす生き物もその中で生かされていると。
すべてその人間の身体の中で存在する赤血球なり白血球や肉体の機関を構成する為に存在している微細な1細胞は、
人間の肉体を健全に支えるという他の細胞や器官、最終的には肉体そのものに益とする為に存在しています。

これは十分お分かり頂けると思います。
しかしもしもここでその1細胞がその存在意義を全うできずにいたとしたならばどうなるでしょうか。
本来あるべき他の細胞や部分的器官、果ては身体全体に対してその役務をはたす事ができない状態です。
これは人間の身体で云うならばある時はガン細胞かもしれません。 その存在が本来の肉体全体に益とする意義がなくなると、
私達人間の世界で云えば病院に行くなりしてその治療なり対処がおこなわれます。
最終的には死滅するなり肉体から除去をされるなりすることでしょう。
もっとも、その細胞なり部分的器官なりといったものを正常に本来の機能、
他の細胞や器官や肉体全体に対して有益とする本来の1細胞としての意義を取り戻させようと他の細胞群が自然治癒のような形で力を貸そうともするわけです。
これらはこの人間社会で云うならば過去幾多も現れた聖者と呼ばれる人々や
国家を良くしようと立ち上がった政治家や指導者のようなものとでも言えばよいでしょうか。
この宇宙というマクロコスモスと人間というミクロコスモスは規模が違うだけで機能的には全く同一なのです。
この各々の個としての1細胞とは、他の細胞や器官、いわば身体全体に向けて益とする機能を発する事がその存在意義であるということはここまで読み進めてこられて充分にご理解頂けたと思います、
しかしここで不満があるやもしれません、それは他に対する益として機能するからこそ生かされているのは理解はできるが自由がないではないかと。
それのみが存在の理由であるなら私達人間とはなんと退屈な存在ではなかろうかと。
これこそがこの私達の日常の悩みでしょうね、愛よらずに利己心を持って存在をしたいと。
しかし利己心の存在としてでなく、実は愛そのものであろうとするときに望むものは得られるのです。
他への益とする存在意義、自己そのものが愛として顕れている事そのものが状態として、そして境地としても最上であり、
他への益となる愛から遠く離れているとき、私達1細胞はその存在として本来の機能が発揮できずに自分を満たす血液にも恵まれず不幸と苦悩を身に背負う。
言い換えれば益とならず弊害とさえなるとき私達は愛から、または望む幸福から自分自身によって切り離し、
私達1細胞は問題を抱え苦しみ不幸となるのです。
 (解消法は後述します「不幸を治療する方法」を参照。)
1細胞という孤立した存在のまま己を利己心によって存在させたいという認識状態は、他より益を供給してもらうばかりを外に求める利己中心と言える状態で、
1細胞でありながらもその存在は実は各器官であり、果ては身体全体なのだと自身が認識してゆくときに、
1細胞のままであった時の小さなものに対するこだわりは消えてゆき、各々を部分的器官、ついには身体そのものと認識するようになるのです。
すると1細胞としての小さな自我意識から抜けてゆくので1細胞として迷いの中にあった時の不満状態、不幸や苦悩とはもはやこの時縁が切れているのです。
その1細胞が自身一粒という自我意識が薄れてゆき、己を拡大した各器官や身体全体と認識してゆくと、(これは人間が利他、愛に基づいて魂の進化を果たしてゆく姿です。)
その時の自身である各々の器官にとってはもはや欲する血液や健全に保とうとする機能も自身で発揮することもできるし、
他の大きな器官からの援助も1細胞として迷いの中にいたときよりもなんら問題なくスムーズに必要とするものを配給してもらえる。
こうしてミクロコスモスなる人体に置き換えて考えてゆくと、これらすべては仏教やヒンズー思想の中で現れた聖者の示すものと見事に一致をしています。
(注、 1細胞の意識状態からついには身体全体を自身と捉える事は仏教でいう解脱に相当すると考えてよいでしょう。
またヒンズーの聖者達が指す全宇宙との合一、ヒンズーの中で云うヨガ、それを行う者、
自己統制をしようとする者を指すヨギの最終地点ではないでしょうか。
ヨガとは「合一」と云う意味だそうです。 ここで指す合一は究極的にはすべてとの一体を指しますが、
過程においては個人間の合一、言い換えれば個人間における愛と受け止めて頂いて構いません。
そしてこれは大切なことなのですが、本書は宗教書ではありませんので全宇宙との合一やら
ブッディストの唱える解脱といった言葉を私が書き進める上での喩えなどで使ってはいますが、
それら宗教的な言葉に触れてもそれらにとらわれず、
私達の生活に役立つものは宗教という概念にこだわらずに
その目的とする愛と幸福のために採り入れていったら良いだけのことなのです。)

身体全体を自身と認識する最終過程こそは全宇宙を自身として捉えるという一元論の中で指す所の創造主、
他のすべてとの合一を指し示しています。 私達には本来誰一人と他人というものは存在しないのです。
 さて、話が長くなりましたが、話を宇宙などという大規模なものから今は小さな個人、1細胞へと話を戻しまして前置きを終わらせて頂きます。
「これら魂の存在意義を私たちの住む人間の世界にあてはめるならば、それらが社会上営む上で欠かせない労働という形をした奉仕となると言えます。」

「一元へ向かって」
愛するって
いったいなに?
同化すること
自分も他人もなくなること
主観も客観もその時 ない
これが一元
これが我は彼なり
痛みも苦しみも悲しみも喜びも
他人のすべてがひとつ残らず自分自身のもの
他人なんか本当は誰一人いやしない
人の生きる目的は人を愛すること
最後はすべてと同化すること
宇宙に溶け合うその最後まで

 前置きが長くなりましたが話を戻しまして進めてゆきましょう、
私はこれまで、愛がすべてを与えるとお話をしました、それはすべては愛によって与えられるからなのだと。
これらは利他としてその存在が働くと、相応のものが自然と因果として身に還るからだということは第二部でお話しした通りです。
利他としての存在を全うすることによって自身にも相応しいものが自然還る、これが人間社会においては社会を構築する助けとして、
その多くは労働という他に対する社会的奉仕の形態を我々の世界では形としてとっています。
人々の生活の向上と維持に努めるという労働、社会的奉仕はその量と質に応じてその人に何の狂いもなく正確に還ります、
これが前もって因果によって定まっていた金銭の量に加算ができるという事を示すものです。
つまり、前世以前より因果によって培ってきた生まれ持って定まっていたものに更にプラスしてゆくことができるのです。
たとえばある人が今までの労働、奉仕では金銭的に賄いきれないと思うのであればその仕事の質と量を変えることによって大きくすることも可能なのです。
これとは別に、特にそのようなことをせずとも満足のできる収入が十分にある人も存在します。
それらの人々は因果によって今生その果が身に還ってきているのです。
例えば倒産する心配のない公務員、特に官僚や、代々の資産家の家に生まれると云ったものは、
その人が持って生まれた個々の因果がそうやって顕れたといえるものなのです。
みずから培った因果の顕れであるからこそその人は金銭的に裕福であるわけです。
前世においてみずから為した他に対する奉仕がその生で還りきらなかった程大きいので今生においてもその残りによって
生まれた時から裕福なのです。
これは裏を返してみればこの今生においてもみずから他に奉仕を一層することによって身に還る事は十分に可能であることをも示唆しています。
さて、選ぶ職業に恵まれず金銭が思うように身に還らない人も世には沢山おられます、
こういった方はそうなるに相応の事をなしてきた疑いがあります、それは生きてゆく中で利己心から発する争いだったかもしれません。
例えば前世や今生において人々の収入の機会を取り上げることが可能な立場に居たかもしれませんし、
仮に商人だったとして、使用人に満足行く適正な賃金を払うことをためらっていたかもしれません、
また例えば、それらの因果を振りまいたその時代においてはカースト制度がその地方にあったやもしれませんし、
それを自己に都合よく人々に無償で労働を強いていたのやもしれません。
(過去各地に残る奴隷制度など。)
これらは自分自身で振りまいた相応の悪しき因果を清算し終えるまでは事実金銭に困る生を生きねばならなくなります。
貧困と縁を切れない人の多くはこれにあるのです。
しかしこれまでお話ししたように、身に振りまいた悪しき因果は清算することが可能です、
どれだけの時間、人生を費やすことになるかは個別の因果に拠るわけですから一概には言えませんが、清算することは確かに可能です、
それは金銭にまつわる因果であるなら、そのまま人々に労働をもって奉仕するという、身によって撒いたことの対極にあるものをためらう事なく懸命に行うという事。
(第二部の「動的な因果の清算」を参照。)
ここで読者の中には残念がる方もおられるやもしれません。 
地味にこつこつ因果を清算してゆくのではなくて、手っ取り早く今すぐにでも身が撒いた悪しき因果を清算する方法はないのかと。
それこそが地味ではありますが撒いた悪しき因果の相対な位置にある善き因果を積んでゆくことなのです。
もっとも、それら因果の償いとも見てとれる善き因果を積んでゆくことこそが既に成功を約束された幸せな状態と解釈できますし、
それらの中にあって因果を真に解釈してゆくようになるならば最低限生活できるだけの金銭が賄えるならば、
悪しき因果をみずから振りまいたときのように激しく求める心情はもはや消えていると云えるでしょう。
これは清算という過程の中でみずから撒いた悪しき因果が清浄となってゆくという事です。
そして金銭はあくまで身を養う上での単なる道具であると認識してゆくようになるでしょうし、
このような結果を招いた身を養う以上の贅沢を欲する心といったものを省みる機会としても悪しき因果は身に還っているのだと認識をするでしょう。
しかし別の捉え方はあります、それは得た金銭、収入を他の人々の益とする為に強く欲するというそれです、
得られる金銭をできるだけ他の人々に役立たせるよう使うならそれらは何倍にもなって還ってくるでしょう。
もっともそれらが今生生きてる中ですぐに還るか時間がかかるか、来世以降の備えとなるかはその人の個別の他の因果にもよるわけですが。




Copyright (C) 1996-2003 愛上王 All right reserved



 【 ひとやすみ 世界に溢れる愛という名の血液 】

 私はこの書を書き進めてゆきながら、人間の資質とか対人間における利己や利他といったステージは、その人の愛はもちろん、
成功や幸福にそのまま直結してるのだと理解しはじめた頃から人間という種そのもののステージに目がゆくようになりました。
人間という種そのものの全体的な精神ステージというと、
これはもはや愛や個人的な恋愛の域からは既に逸脱してしまっているように思われるかもしれません。
しかし逆説的にものをみるならばこれらの視点、人間という種そのもののステージの視点からみつめてゆくと、
これまで書き進めてきたものはこれら人間が到達してゆくべきステージに必要不可欠な、辿るべき道である気がしてなりません。
ここでは人間の精神性のステージと愛によってつかむ事のできる、この世界に溢れる血液、愛の具象化した顕れのひとつである金銭についてお話しします。

 まず初めは現人間の精神性のステージを理解する助けになるものを。
エジソンは昔、電流を使って人工的な明かりを作ろうとしました、これは私達の知る通りエジソンの努力は実を結び、電球として実現をしました。
しかし当時の人々の目からみればこれはもう狂気の沙汰だったかもしれません。
電気を応用すれば人工的な明かりになるだろうという発想は、実現されるまでは想像の範疇を越えないなんら根拠を示すものがない。
今でこそ我々は電球をみつめてその明かりのメカニズムそのものは理解できなくとも、
その明かりのまぶしさになんら疑問を抱かずに当然の事としてはいますが、
きっと実現されるそれまでは、人々の目からみれば理解を超えた途方もない事と思われた事でしょう。
 エジソンとグラハムベルが同時期に研究していた遠く離れた人と会話をする機械、
電話機もそうで、これも人々の目からみれば狂気の沙汰だったに違いありません。
現実は努力が実を結んでふたりとも完成し、特許出願で一歩早かったベルの方が電話発明者として後に名を残すことになる。
音や声を記録し、いつでもその音や声を再生する機械、蓄音機もそうです。
どれもすべて実現するまでは理解を超えた狂気の沙汰にしか人々の目には映らなかったことでしょう。
 これら数々の発明を成し遂げたエジソンがその晩年の最後に挑んでいた発明はなんと霊界電話であったといいます。
死者の発するバイブレーションと生きている人間の発する声、これらは皆同じ周波数の高域低域の違いなのだろうという発想の元に研究が進められていたそうです。
死者と会話をする装置、未だ実現されていないこの装置を作ろうとしていたエジソンははたして気がふれていたのでしょうか?
実際は晩年死が近づいていたエジソンが死後の世界に興味を持ち、これらに挑戦したのだろうと察しています。
しかしエジソンは霊界電話を完成させる前に他界してしまった。 (設計図が一部が残っているそうです。)
それは霊界電話を完成させる事は世にはまだ早いとしている高位の知性体の介入によりエジソンの生存中には日の目を見なかったのだろうと言われています。
これと似たような話に、エジソンよりも更に昔の人間が電球を発明しそうになった時も、
その人間は突然他界してしまったのだという話を以前ある書物によって読んだ覚えがあります。
高位の知性体の介入により世に相応しい発明となるまでは実現させられないのだと云うことなのかもしれません。

 エジソンの発想は正しかったのかもしれません、死者と生きている人間の発する声は周波数の異なるだけの同じものなのだという発想。
これを元に研究が進み、もしも完成していたとしたならどうなっていたでしょう?
霊界電話が普及していたとしたならば。
答えは明白です、死後の世界に憧れたり、先に死んだ恋人を追いかけるように自殺する者が激増していたに違いありません。
現人間の精神性の発達度合いからみれば害の方が大きいのです。
無論機械そのものが悪なのではなく、我々の心が追いつけずにそのような要素を生み出してしまうわけですが。
このあたりの現人間の精神性の発達レベルが、私達に霊界電話の存在がまだ時期として早すぎると考えられるゆえんなのでしょう。

 これはある国でおきた話になりますが、現実にあった話として昔、オーソンウェルズによるラジオ番組で火星より宇宙人が来襲してきたという内容のものが放送されたことがありました。
もちろん単なるドラマにすぎず、ラジオの聴者のそのほとんどは作り話であることを理解していたものと考えられるのですが、
一部の人々はそれを作り話と考えずに本当に地球に火星人がやってきて今まさに侵略が始まったのだと気が動転する者が続出したという話があります。
問題はその後の事でした、これら混乱を招いたのはラジオという機械が悪だからなのだと短絡し、
単なる電波受信機でしかないラジオを撲滅せんと至るところにあるラジオというラジオを叩き壊す運動が起きたのです。
これはある国で実際に起きた話であり、ラジオ全盛の頃のできごとらしいですが、ラジオドラマであるという事を忘れ、
自身の短絡的思考による早とちりが招いた騒動であるとは認めず、この、ラジオそのものを悪であると転嫁した人々、どうでしょう?
この現代で同じようにオーソンウェルズのドラマ並に迫真に満ちたものがラジオで放送されたとして、
同じように混乱を招いて大騒ぎするような精神的発達段階の者がはたして居るでしょうか?
まして騒ぎの後にラジオ撲滅運動を興し、世界中のラジオをバットでたたき壊す行動にでる者が居るでしょうか?
答えは否でしょう。
現人間はこの騒動の時より幾らか発達しました。
様々な時代には人々という種そのものにも発達の段階があるのです。

 種にはその時代に添った精神性の高低があるということをおおよそお分かり頂いたと思います、
それでは肝心の金銭について話を進めてゆきましょう、金銭の存在する意義、存在理由も含めて。

 金銭とは争いなく平和に欲するものを得させる手段です。
そして金銭そのものは愛の低次元における具象化とも言えます。
それは、与えるなら自然それは得られるという愛そのものの因果の低次元における顕れ、具象化であり、
高次である本来の、与えそして得られると云う遙か高き純粋なる愛という精神ステージを擬似的に我々人間に学ばせる手段ともなっているのです。
すると金銭を労働によって得ずに奪うという、金銭のルールから外れた悪事は金銭というものを概念として認められる種以前の段階の行為となります。


 金銭という概念がその種に与えられるそれまでは、得るためには殺し合い奪い合うというステージにあります。
生き物の進化に合わせてそれらすべては境遇としてみずからが与えているからと言えるでしょう。
大昔の恐竜は得るため食べるために他を殺して奪っていた、それは力による生存。
恐竜の時代が過ぎ去ったあとの原始人もそうでした、争いは常であった。
 これはその種の精神性の発達度合いに照らし合わせると、金銭という概念が派生する以前の種は、
得るために奪う、殺し合うという「利己中心」が自然な概念であり、それを疑う事すら知らない。
食べる物が何もないなら生んだ母であろうが同じく生まれた兄弟であろうが共食いをしていた。 
恐竜の時代において生きる事は奪う事だった。
この境遇にみずから身を置いていた種の発達段階においては、そのみずからが求めた掟に相応しく自分自身もその掟に支配されます。
自分自身も更に獰猛で、得るために手段を選ばぬ者の食料となるのです。
これは、得るための因果のスタイルは、「得るために 奪い、奪われる」という未開なスタイルと言えましょう。
後に人間が生まれ、それまでの概念である生きるために奪い合うという概念は未だ引きずりつつも、
新たに生まれた種は得るために争いを起こさずに得る方法を学びます。
初期のその様子は交換という形です。 そのスタイルは利己利他4分類に当てはめるならば「利己利他混在」になります。
「得るために 与え、そして得られる」 という、得るための因果のスタイルが平和的なものに徐々に変化をしてゆく。
これが金銭の始まりだ。
現人間は大まかに云えば今この段階にいます。
得るためには奪い殺し合うという段階であった「利己中心」から見つめるならば到底理解不能なこの「利己利他混在」という段階に生きる我々も、
更にその奥で待っているであろう「利他」の段階は理解に苦しむものかもしれません。
現人間のこの「利己利他混在」と言えるステージは、厳密に云うならば、「与え、そして自然得られる」ではなくて、
「得るために与えよ」になります。
得るためという根本動機がここにあるわけです。
この現人間の常である利己心を内在した「利己利他混在」のステージの先には、「利他」が土台となり恒常になる生活が待っています。
いわば種の精神性進化過程のこの先の途上にあると想定されるステージ。
この「利他」が我々人間にとってなんの疑いもなく常であると認識するようになる頃には、
「利己利他混在期」であった時のその象徴である「金銭」は人々の概念から消えるのです。
それはお金が無くなるということ。
得るために奪うという「利己中心」から離れ、
得るためにはまず与えるという「利己利他混在」からも離れ、
「利他」による、すべてにただ与え尽くすというステージでは、過去の遺物である「金銭」はなくなるのです。
「利他」であるからすべてはただ与え合い、与え合うゆえに求むという必要がなくなる。 すると求む為の道具は要らなくなります。
ただ与え合うというステージ。
さて、この「利他」というステージを現実化した国々も民族も今のところ地球上のどこにも見あたりません、
するとこれは理想論であって実現はされやしないものでしょうか?
「利己中心」が常であった奪いあい殺しあうステージに居た者が見つめたステージである「得るために与えよ」という「利己利他混在期」のように
鼻で笑ってしまうおかしな事でしょうか?
否、人間は今急速に進化している時期にあり、可能性はあると言えます。
千年前や二千年前は現代と比べるならば種としての進化は緩慢であったように思われますが、
現人間は精神性の発達を助ける刺激に恵まれているのです。
地上においてあらゆる種の中で、今の人間ほど急速に進化している種は他に見あたらないのです。
さて、「利他」が恒常となる種の段階は本当にやってくるでしょうか?
やってきます、それは遙か先かもしれない、しかしこの世界はいずれ必ずやってくる、しかしそれには条件があるんです。
人間はこぶし固めて人に向かえば、
相手は地面に落ちてる石を拾って構える生き物ですね。
何しろ石ころの方がこぶしよりも堅く痛い、利点に目を向けるからです。
するとさらに石に対抗するために棒を手にし、
そしてその棒に対抗するためにどんどん武器は強くなっていく。
棒なら剣、剣なら銃、ライフル、大砲、戦車、爆弾、飛行機だ戦艦だってなっていき、ついには終着点に行き着きます。
その終着点は自分すらも滅ぼしてしまう兵器に手をだしてしまうと言う事。
最後は相手と共に自滅してしまう兵器、「核」にまで手をだす。
行き着くまで果てがない。
これが人間、悲しいけど人間、
この予測される結果を見越して争いをやめるだけの知恵が本来人間にはあるんです。
目の前ばかりでなく先も見て平和を選ぶ事が人間はできるんです。
しかし人間は愚かだからこそこれらを続けてしまう。
続けていった場合はその答えを自分たち自身で「果として実際に味あわねば省みる事ができません。」
この結果を見通して未然に防いだならもっとも望むべき条件を満たせます。
もし人間が愚かなままであったとしても、こうしてみずから体験したときに他の種とは違って知恵があるからここで初めて省みる事もできるのです。
終着点が起きた時にようやく自分たちの愚かさを悔いて条件を満たすようになります。
争いがばからしいものである事に気づいてようやくやめるようになるんですね。 この時に。 
そして人々はいずれにしてもどちらの結果で辿ろうとも誰もが助け合うという種になります。
この時人間という種そのもののステージが揚がってゆくのです。
そしてこれらがその種の恒常的なステージになった時には金銭の役目はついに終わります。
金銭は種の進化のステージの中において一種の知恵であり擬似的な学習を我々種に学ばせていたものなのだとこの時悟るのです。

 金銭という概念を我々人間に与えたのは、言うなれば争いから抜け出たいと我々が進化の階梯の中で自分自身に求めたという、
自身の精神ステージの進化のたまものだったのです。
何をしてでも奪うというステージである種の段階においては金銭は存在しません。
猫に金銭は存在しませんし、犬や猿にも金銭は存在していない。
どの種の中においてもその種にふさわしい境遇や知恵、そのステージに相応しい秩序を与えているのは実は我々「魂」自身なんです。
私の幾多とあった永い流浪、転生の最中では、猿であった時は求める物を平和裏に解決する種の知恵、進歩の精神性に直結しているその「金銭」を知らなかったのだ。

金銭という概念、すなわち「得るために相応のものを与えよ」というステージそのものは、
与えあい愛し合えという「利他」のステージに到達するための必要不可欠な通過点なのです。


これらは地上に生きる種である「人間」そのものがステージとして到達するにはまだ時間がかかるかもしれません、
しかし個人においては容易に実現をする事が実は種全体そのものよりも簡単なのです。
「利他の概念に基づいて精神性を向上させてそのような生涯を送った者は、その精神性に相応しい世界に必ず転生をします。」
地上における種の進化が成されるまで待つ必要はなく、すみやかに相応しい地にその魂は住む。
もちろんこれらは輪廻思想が根本にあるものなので、それ以前の唯物観のみで生きるステージである「利己中心」が常な場合は承け入れられる事もないと思いますが。

■ 金銭やあらゆる物質、人間生活に欠かせない豊かさといったもの、
私達が本来心の奥底で求めている真の幸福である不動なる絶対愛や、日常的な生活における様々な利益は、
実は私達一人ひとりの為にしっかりと用意されていて、この世界にそれはまるで血液のように溢れているものです。
それら人が望む豊かさ、精神、物質問わず、人に幸福を与えるものの正体は、
本当はその人の愛の現実世界に具象化した顕れであり、
人がこれら求める豊かさと縁遠くなってしまうのは人々が利己に傾いてゆき、
それらを自身の手によって自ら切り離してしまっているからなのです。
 もし私達が人々に愛や金銭、善きものを外側である人々に向けて放つなら、
それは益々自分の許に流れてやってきて枯れてしまうことはありません。
血液とは本来そういうものなのです、一見内から外に向けて放ち、枯れつきてしまいそうに見えても、
流れは自分を通過点として通るように益々自分にも上流から流れてくるのです。
たとえば血管のある場所で流れをやめてしまい詰まったとしましょうか、流れはそこでとまり、人々には流れていきません、
当然自分を満たす新たな血液も自分の許にはやってこないのです、愛という血液の流れを自分で止めてしまっているのですから。
■ もし人を愛し、人々を愛し、そうやって愛する人を手に入れ、幸福となってゆくのなら、
あなたのその愛の顕れは現実的な金銭としても具象化してゆきます。
愛は今お話したようにこの世界に溢れ流れる血液のようなものです、
愛を人々に、外側に流れてゆくように、みずからが得た愛の具象した金銭も惜しみなく人々に還元するよう与えてください、
人々に向けて放つなら益々自分の許に流れてやってきます。





Copyright (C) 1996-2003 愛上王 All right reserved

 私の記事で何かしらよいものがあると思われる方、
どうぞよろしくお願いをします。

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