続・精神世界に集まる二種類の人たち


 続・精神世界に集まる二種類の人たち

 前回、哲学思想系とか、精神世界やらスピリチュアルとか呼ばれている系統のものに集まる方は、大まかに大別すると二種類いるのだとお話をしました。
前回記事では最後の結びに、「近くこのことを実例を見ながら考えてゆきたいと思います。」このようにお話をしました。
そこで、今回はその続きということで、実例として具体的な詳細例を挙げようかと考えていましたが、
もしやすると期待していた方もいるのかもしれませんが、詳細な具体例で件の方らを引き合いにしてしまうと、わざわざ今から逃げ道を作ってあげるに等しくなってしまいます。

よって不本意ではありますが、何か別の形で具体例を挙げるにはどうしたらよいか悩みました所、
哲学思想系やら精神世界系統とは違う、別の形でその様子を観察ができる、実に詳細な具体例が他にも数多くあるのを発見しましたので、ここにそれらを一部紹介したいと思います。

紹介例はいくつにも及びますので、紹介したものすべてを読むのが面倒な方もいるかもしれません、
ですのでまずは先にまとめておきます。

まず、精神世界系統に集まる方々は霊性や精神性の向上といった本来のもの、それは、ささやかなれど求道の志しのある方々。
そしてもう一つは、こうした世界に触れるのは、
汗水を流して対価を得るのではなく、楽をして得をしたい、手を抜いて自分が満たされたい。 それが自身の幸福と考えてこうしたジャンルの世界に触れたがる人々。
要はわかりやすく言うなら、こうした精神世界系統を自分の楽や欲求を満たすためにあるのだと深層で捉えている方。(詳細は前回記事を参照されたし。)
もちろん、そうした傾向の人からしてみれば、それのどこが悪いのか、何がいけないのか、そういう疑問もあると思います。
でも実は、その各人のそうした姿勢こそがその人を表しているものなのです。

その姿勢とは、各人がこうした霊性や精神性の向上に繋がるべくある、哲学思想系だの精神世界系、また時にはスピリチュアルと呼ぶ方もおられるようですが、
こうした世界での実際に立っている位置、言い換えればその人自身の成長のステージ、もしくは魂でもいいですし、心の成長ステージと置き換えてもらってもいいですが、
そうしたものをそのまま表しているのです。 そう、その姿勢こそが如実に私たち自身を表していると。
今回は遥か10年以上も前に書き上げた記事を幾つか再掲しますが、どれもこうした各人の姿勢が如何に自身の魂のステージを表しているか、参考にして頂きたく挙げておきます。




以下に、2002年1月に、「上を向いて歩こう」内に記しました利己利他4分類、実際は6分類でも7分類でもあるのですが、(利他から合一の間の移行期は省いてあります。)ここで再度挙げておきます。(注へ

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 【 利己利他4分類 】

 以下の大まかに分類した4つは人の利他利己の傾向です。

「利己中心」 自分がよければ他人に苦痛をもたらすことにためらいのない段階。
心と行動をもって、求めた愛と幸福が身にやって来ず、かえって苦痛と不幸が身にやってくる事が多い人はこの利己心で行動することが常の人。
■ 利己心で行動する者を当然と捉え、得る為には人より一層利己的であるべきと考える。

次の段階である「利己利他混在」への移行期は身近な人たちへの善は行える。
(注、これらの多くは自己の利益に結びついている事が多い。 )

「利己利他混在」 因果を知り、苦を味わいたくないから人に苦を与えないとし、
善を人に与えてそれらが自分に還ることを求める段階。(注、これらは次の段階に進む為にも必要不可欠。)
この段階では人の身を案じて苦を与えず善を与えようというのではなく、自分に苦が還らず善が還る事を期待して行うという利己部分はあるが、
善を行い、楽が自己に還ることを身を以て知るという学習期間とも云えるもので、次の段階に移行するためにこれらを繰り返す必要性はあります。
■ 利己心で行動する者を幼き者として捉え、軽蔑心が芽生える事もある。

次の段階である「利他」への移行期は幸福状態、
楽が自己に還るのが恒常状態であるので利己部分による動機は必要性が薄れてゆき、学習したものを自然と振る舞える段階。

「利他 (愛)」 前段階で苦を味わいたくないから人に苦を与えないという利己部分がなくなり、
誰もが自分と同じように幸福であるようにと考えて行うようになる。 これは他人を尊重するという段階。
この世に他人は一人もいないのだとおぼろげながら知りつつある段階でもある。
■ 利己心で行動する者を途上における過程者と捉えようとし、軽蔑心は自己を振り返る事により芽生えない。

「合一 もしくは別無 (純粋愛)」 前段階で自分と同じように他者の幸福を行ってきた者はついには自己も他も同じと観る、区別がない。
区別がないので利他とは云わず。
一切の心と行動はすべては人に向けると同時に自分に向けているのと変わりないことを完全に知った状態。
■ 自他の区別がなくなり、自分という執着がないので物欲すらもない。

 私達はあまりに自分の価値観とかけ離れている場合にはそれらを理解することができません、
おぼろげながらも理解できるものは隣接しているすぐ上のものまでになります。
「利己中心」が常の者にとって「利他」の概念は理解を超えていますが、
それが自分の為に行うという「利己中心」に通じるものが含まれる「利己利他混在」は理解しやすく受け容れやすいのです。
同じように「利己利他混在」のステージでは自己も他者も同一という捉え方をする「別無」のステージを理解できません、
自己と他が分離存在した形で因果を行使してゆくと考えるからで、
自分という利己部分が消えてゆきはじめる「利他」のステージになって初めてそれらを徐々に理解し始めるようになります。


 人は利己利他混在までの段階においては、錯覚からくる代替えによる満足や幸福を味わおうとし続けてしまいがちで、
私たちが本来真に求めている確固とした幸福状態に移行してゆこうとすることがなかなかできません。
決して心から望む満足ではない事を私たちは薄々気づいてはいます、
しかしそれらを手放して真に望む幸福、満足が得られるかどうかに根拠のない一抹の不安があると云ってもいい、
ぬるま湯のお風呂に浸かりながら、もっと暖かい湯で満足を得ようと求めつつ、あきらめてしまっていると云えよう。
これは利己利他混在や利他の段階の必要性といったものに目を向けようとできなくなってしまっている状態と言ってよく、
これらの状態は前述しましたが、利己心の特徴として目先の事にばかり関心を寄せてしまうというその傾向は、
表象上のもっともらしく自分を安逸とさせる都合よい理由ばかり探そうとしている事が起因しています。
この状態にいる事がいわゆる精神的に視野が狭くなってしまっている状態と云えるのです。

■ 日常の価値観や判断基準は慣れ親しんだ結果である固執の場合が多く、
それらは他に意識を向けないままでいる事が起因している錯覚の場合が往々にしてあります。


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(こうした過去に書き上げた記事のお披露目をしました年や月をわざわざ公言しておりますのは、当ブログ長らくの読者にはお分かりと思いますが、小生は只今盗作に非常に過敏になっておるからです。 
当時別サイトで、ネットアイドル総合ポータルサイト最古参であります、
「Cute Girls Japan」 にてサブコンテンツとして「上を向いて歩こう」というタイトルで記事を更新し続け、誰でも閲覧ができました。 
この「利己利他4分類」は2002年1月に書いてすぐさまサイトで公開したものです。
当時、Cute Girls Japanはネット系の複数の雑誌などで取り上げられ、ネットアイドル総合ポータルサイトとして最も有名なサイトでした。 
よって私の記事を当時リアルタイムで読まれていた読者は数十万人いたという事。 こうしたことをキチンと明示しておかないとパクる方は後先のバレることも考えずにまたパクりますからね。)



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 【 ひとやすみ 世界に溢れる愛という名の血液 】

 私はこの書を書き進めてゆきながら、人間の資質とか対人間における利己や利他といったステージは、その人の愛はもちろん、
成功や幸福にそのまま直結してるのだと理解しはじめた頃から人間という種そのもののステージに目がゆくようになりました。
人間という種そのものの全体的な精神ステージというと、
これはもはや愛や個人的な恋愛の域からは既に逸脱してしまっているように思われるかもしれません。
しかし逆説的にものをみるならばこれらの視点、人間という種そのもののステージの視点からみつめてゆくと、
これまで書き進めてきたものはこれら人間が到達してゆくべきステージに必要不可欠な、辿るべき道である気がしてなりません。
ここでは人間の精神性のステージと愛によってつかむ事のできる、この世界に溢れる血液、愛の具象化した顕れのひとつである金銭についてお話しします。

 まず初めは現人間の精神性のステージを理解する助けになるものを。
エジソンは昔、電流を使って人工的な明かりを作ろうとしました、これは私達の知る通りエジソンの努力は実を結び、電球として実現をしました。
しかし当時の人々の目からみればこれはもう狂気の沙汰だったかもしれません。
電気を応用すれば人工的な明かりになるだろうという発想は、実現されるまでは想像の範疇を越えないなんら根拠を示すものがない。
今でこそ我々は電球をみつめてその明かりのメカニズムそのものは理解できなくとも、
その明かりのまぶしさになんら疑問を抱かずに当然の事としてはいますが、
きっと実現されるそれまでは、人々の目からみれば理解を超えた途方もない事と思われた事でしょう。
 エジソンとグラハムベルが同時期に研究していた遠く離れた人と会話をする機械、
電話機もそうで、これも人々の目からみれば狂気の沙汰だったに違いありません。
現実は努力が実を結んでふたりとも完成し、特許出願で一歩早かったベルの方が電話発明者として後に名を残すことになる。
音や声を記録し、いつでもその音や声を再生する機械、蓄音機もそうです。
どれもすべて実現するまでは理解を超えた狂気の沙汰にしか人々の目には映らなかったことでしょう。
 これら数々の発明を成し遂げたエジソンがその晩年の最後に挑んでいた発明はなんと霊界電話であったといいます。
死者の発するバイブレーションと生きている人間の発する声、これらは皆同じ周波数の高域低域の違いなのだろうという発想の元に研究が進められていたそうです。
死者と会話をする装置、未だ実現されていないこの装置を作ろうとしていたエジソンははたして気がふれていたのでしょうか?
実際は晩年死が近づいていたエジソンが死後の世界に興味を持ち、これらに挑戦したのだろうと察しています。
しかしエジソンは霊界電話を完成させる前に他界してしまった。 (設計図が一部が残っているそうです。)
それは霊界電話を完成させる事は世にはまだ早いとしている高位の知性体の介入によりエジソンの生存中には日の目を見なかったのだろうと言われています。
これと似たような話に、エジソンよりも更に昔の人間が電球を発明しそうになった時も、
その人間は突然他界してしまったのだという話を以前ある書物によって読んだ覚えがあります。
高位の知性体の介入により世に相応しい発明となるまでは実現させられないのだと云うことなのかもしれません。

 エジソンの発想は正しかったのかもしれません、死者と生きている人間の発する声は周波数の異なるだけの同じものなのだという発想。
これを元に研究が進み、もしも完成していたとしたならどうなっていたでしょう?
霊界電話が普及していたとしたならば。
答えは明白です、死後の世界に憧れたり、先に死んだ恋人を追いかけるように自殺する者が激増していたに違いありません。
現人間の精神性の発達度合いからみれば害の方が大きいのです。
無論機械そのものが悪なのではなく、我々の心が追いつけずにそのような要素を生み出してしまうわけですが。
このあたりの現人間の精神性の発達レベルが、私達に霊界電話の存在がまだ時期として早すぎると考えられるゆえんなのでしょう。

 これはある国でおきた話になりますが、現実にあった話として昔、オーソンウェルズによるラジオ番組で火星より宇宙人が来襲してきたという内容のものが放送されたことがありました。
もちろん単なるドラマにすぎず、ラジオの聴者のそのほとんどは作り話であることを理解していたものと考えられるのですが、
一部の人々はそれを作り話と考えずに本当に地球に火星人がやってきて今まさに侵略が始まったのだと気が動転する者が続出したという話があります。
問題はその後の事でした、これら混乱を招いたのはラジオという機械が悪だからなのだと短絡し、
単なる電波受信機でしかないラジオを撲滅せんと至るところにあるラジオというラジオを叩き壊す運動が起きたのです。
これはある国で実際に起きた話であり、ラジオ全盛の頃のできごとらしいですが、ラジオドラマであるという事を忘れ、
自身の短絡的思考による早とちりが招いた騒動であるとは認めず、この、ラジオそのものを悪であると転嫁した人々、どうでしょう?
この現代で同じようにオーソンウェルズのドラマ並に迫真に満ちたものがラジオで放送されたとして、
同じように混乱を招いて大騒ぎするような精神的発達段階の者がはたして居るでしょうか?
まして騒ぎの後にラジオ撲滅運動を興し、世界中のラジオをバットでたたき壊す行動にでる者が居るでしょうか?
答えは否でしょう。
現人間はこの騒動の時より幾らか発達しました。
様々な時代には人々という種そのものにも発達の段階があるのです。

 種にはその時代に添った精神性の高低があるということをおおよそお分かり頂いたと思います、
それでは肝心の金銭について話を進めてゆきましょう、金銭の存在する意義、存在理由も含めて。

 金銭とは争いなく平和に欲するものを得させる手段です。
そして金銭そのものは愛の低次元における具象化とも言えます。
それは、与えるなら自然それは得られるという愛そのものの因果の低次元における顕れ、具象化であり、
高次である本来の、与えそして得られると云う遙か高き純粋なる愛という精神ステージを擬似的に我々人間に学ばせる手段ともなっているのです。
すると金銭を労働によって得ずに奪うという、金銭のルールから外れた悪事は金銭というものを概念として認められる種以前の段階の行為となります。


 金銭という概念がその種に与えられるそれまでは、得るためには殺し合い奪い合うというステージにあります。
生き物の進化に合わせてそれらすべては境遇としてみずからが与えているからと言えるでしょう。
大昔の恐竜は得るため食べるために他を殺して奪っていた、それは力による生存。
恐竜の時代が過ぎ去ったあとの原始人もそうでした、争いは常であった。
 これはその種の精神性の発達度合いに照らし合わせると、金銭という概念が派生する以前の種は、
得るために奪う、殺し合うという「利己中心」が自然な概念であり、それを疑う事すら知らない。
食べる物が何もないなら生んだ母であろうが同じく生まれた兄弟であろうが共食いをしていた。 
恐竜の時代において生きる事は奪う事だった。
この境遇にみずから身を置いていた種の発達段階においては、そのみずからが求めた掟に相応しく自分自身もその掟に支配されます。
自分自身も更に獰猛で、得るために手段を選ばぬ者の食料となるのです。
これは、得るための因果のスタイルは、「得るために 奪い、奪われる」という未開なスタイルと言えましょう。
後に人間が生まれ、それまでの概念である生きるために奪い合うという概念は未だ引きずりつつも、
新たに生まれた種は得るために争いを起こさずに得る方法を学びます。
初期のその様子は交換という形です。 そのスタイルは利己利他4分類に当てはめるならば「利己利他混在」になります。
「得るために 与え、そして得られる」 という、得るための因果のスタイルが平和的なものに徐々に変化をしてゆく。
これが金銭の始まりだ。
現人間は大まかに云えば今この段階にいます。
得るためには奪い殺し合うという段階であった「利己中心」から見つめるならば到底理解不能なこの「利己利他混在」という段階に生きる我々も、
更にその奥で待っているであろう「利他」の段階は理解に苦しむものかもしれません。
現人間のこの「利己利他混在」と言えるステージは、厳密に云うならば、「与え、そして自然得られる」ではなくて、
「得るために与えよ」になります。
得るためという根本動機がここにあるわけです。
この現人間の常である利己心を内在した「利己利他混在」のステージの先には、「利他」が土台となり恒常になる生活が待っています。
いわば種の精神性進化過程のこの先の途上にあると想定されるステージ。
この「利他」が我々人間にとってなんの疑いもなく常であると認識するようになる頃には、
「利己利他混在期」であった時のその象徴である「金銭」は人々の概念から消えるのです。
それはお金が無くなるということ。
得るために奪うという「利己中心」から離れ、
得るためにはまず与えるという「利己利他混在」からも離れ、
「利他」による、すべてにただ与え尽くすというステージでは、過去の遺物である「金銭」はなくなるのです。
「利他」であるからすべてはただ与え合い、与え合うゆえに求むという必要がなくなる。 すると求む為の道具は要らなくなります。
ただ与え合うというステージ。
さて、この「利他」というステージを現実化した国々も民族も今のところ地球上のどこにも見あたりません、
するとこれは理想論であって実現はされやしないものでしょうか?
「利己中心」が常であった奪いあい殺しあうステージに居た者が見つめたステージである「得るために与えよ」という「利己利他混在期」のように
鼻で笑ってしまうおかしな事でしょうか?
否、人間は今急速に進化している時期にあり、可能性はあると言えます。
千年前や二千年前は現代と比べるならば種としての進化は緩慢であったように思われますが、
現人間は精神性の発達を助ける刺激に恵まれているのです。
地上においてあらゆる種の中で、今の人間ほど急速に進化している種は他に見あたらないのです。
さて、「利他」が恒常となる種の段階は本当にやってくるでしょうか?
やってきます、それは遙か先かもしれない、しかしこの世界はいずれ必ずやってくる、しかしそれには条件があるんです。
人間はこぶし固めて人に向かえば、
相手は地面に落ちてる石を拾って構える生き物ですね。
何しろ石ころの方がこぶしよりも堅く痛い、利点に目を向けるからです。
するとさらに石に対抗するために棒を手にし、
そしてその棒に対抗するためにどんどん武器は強くなっていく。
棒なら剣、剣なら銃、ライフル、大砲、戦車、爆弾、飛行機だ戦艦だってなっていき、ついには終着点に行き着きます。
その終着点は自分すらも滅ぼしてしまう兵器に手をだしてしまうと言う事。
最後は相手と共に自滅してしまう兵器、「核」にまで手をだす。
行き着くまで果てがない。
これが人間、悲しいけど人間、
この予測される結果を見越して争いをやめるだけの知恵が本来人間にはあるんです。
目の前ばかりでなく先も見て平和を選ぶ事が人間はできるんです。
しかし人間は愚かだからこそこれらを続けてしまう。
続けていった場合はその答えを自分たち自身で「果として実際に味あわねば省みる事ができません。」
この結果を見通して未然に防いだならもっとも望むべき条件を満たせます。
もし人間が愚かなままであったとしても、こうしてみずから体験したときに他の種とは違って知恵があるからここで初めて省みる事もできるのです。
終着点が起きた時にようやく自分たちの愚かさを悔いて条件を満たすようになります。
争いがばからしいものである事に気づいてようやくやめるようになるんですね。 この時に。 
そして人々はいずれにしてもどちらの結果で辿ろうとも誰もが助け合うという種になります。
この時人間という種そのもののステージが揚がってゆくのです。
そしてこれらがその種の恒常的なステージになった時には金銭の役目はついに終わります。
金銭は種の進化のステージの中において一種の知恵であり擬似的な学習を我々種に学ばせていたものなのだとこの時悟るのです。

 金銭という概念を我々人間に与えたのは、言うなれば争いから抜け出たいと我々が進化の階梯の中で自分自身に求めたという、
自身の精神ステージの進化のたまものだったのです。
何をしてでも奪うというステージである種の段階においては金銭は存在しません。
猫に金銭は存在しませんし、犬や猿にも金銭は存在していない。
どの種の中においてもその種にふさわしい境遇や知恵、そのステージに相応しい秩序を与えているのは実は我々「魂」自身なんです。
私の幾多とあった永い流浪、転生の最中では、猿であった時は求める物を平和裏に解決する種の知恵、進歩の精神性に直結しているその「金銭」を知らなかったのだ。

金銭という概念、すなわち「得るために相応のものを与えよ」というステージそのものは、
与えあい愛し合えという「利他」のステージに到達するための必要不可欠な通過点なのです。

これらは地上に生きる種である「人間」そのものがステージとして到達するにはまだ時間がかかるかもしれません、
しかし個人においては容易に実現をする事が実は種全体そのものよりも簡単なのです。
「利他の概念に基づいて精神性を向上させてそのような生涯を送った者は、その精神性に相応しい世界に必ず転生をします。」
地上における種の進化が成されるまで待つ必要はなく、すみやかに相応しい地にその魂は住む。
もちろんこれらは輪廻思想が根本にあるものなので、それ以前の唯物観のみで生きるステージである「利己中心」が常な場合は承け入れられる事もないと思いますが。

■ 金銭やあらゆる物質、人間生活に欠かせない豊かさといったもの、
私達が本来心の奥底で求めている真の幸福である不動なる絶対愛や、日常的な生活における様々な利益は、
実は私達一人ひとりの為にしっかりと用意されていて、この世界にそれはまるで血液のように溢れているものです。
それら人が望む豊かさ、精神、物質問わず、人に幸福を与えるものの正体は、
本当はその人の愛の現実世界に具象化した顕れであり、
人がこれら求める豊かさと縁遠くなってしまうのは人々が利己に傾いてゆき、
それらを自身の手によって自ら切り離してしまっているからなのです。
 もし私達が人々に愛や金銭、善きものを外側である人々に向けて放つなら、
それは益々自分の許に流れてやってきて枯れてしまうことはありません。
血液とは本来そういうものなのです、一見内から外に向けて放ち、枯れつきてしまいそうに見えても、
流れは自分を通過点として通るように益々自分にも上流から流れてくるのです。
たとえば血管のある場所で流れをやめてしまい詰まったとしましょうか、流れはそこでとまり、人々には流れていきません、
当然自分を満たす新たな血液も自分の許にはやってこないのです、愛という血液の流れを自分で止めてしまっているのですから。
■ もし人を愛し、人々を愛し、そうやって愛する人を手に入れ、幸福となってゆくのなら、
あなたのその愛の顕れは現実的な金銭としても具象化してゆきます。
愛は今お話したようにこの世界に溢れ流れる血液のようなものです、
愛を人々に、外側に流れてゆくように、みずからが得た愛の具象した金銭も惜しみなく人々に還元するよう与えてください、
人々に向けて放つなら益々自分の許に流れてやってきます。



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上記は上を向いて歩こうの2003年5月版にはすでに盛り込まれていますが、
大元の下書きとなったものは、当ブログのLINKコーナーにアドレスを載せています別サイトの一つであります、
椿薫の言いたい放題「したごころ」の2002年6月22日の日記の後半に記してあります。

なぜここまで過敏なのかはですね、多少は焼き直ししてバレにくくするパクりをする人もおれば、
中には信じがたいことですが、まるパクする人もいます。
私がこれまでに主にされてきたのは焼き直ししてバレにくくしつつも、複数をあれこれパクられているケースがほとんどでしたが、
中にはほぼまるパクされてきたものもあります。
まるパクをする人はめずらしい部類ですが、例を示せないわけでもありません。
現在、被害者のサイトは閉鎖されていますが、アーカイブが保存をしていました。 残念なのはアーカイブ側ですべてを保存しきれていない点。
http://web.archive.org/web/20080902022255/http://lapis.blog.so-net.ne.jp/2008-09-01
パクっていた側のサイトももはやありませんが、これは魚拓に残されていたので同じく挙げておきます。
http://megalodon.jp/2008-0903-0031-10/horspot.livedoor.biz/


他には、やや焼き直しをしつつパクる人から複数の被害を受けている方もいます。
この方はサイトが継続中でもありますので、直接のアドレスを挙げるのは控え、以下のアドレスを開き、下部の方の記事複数を読まれてみるとよいかもしれません。
「盗作bloggerと闘う」 http://dog.blogmura.com/tb_entry69347.html


話を戻しますが、このパクリ、いわゆる盗作と呼ばれる行為の話はですね、
日々の姿勢や、心のステージを趣旨としました今回の記事とは別物ではないんですね。
キチンとリンクしているんです。
それは、人のものを奪うという事。 盗む、やたらと他人のものを欲しがる、
こうした行為、心の姿勢は、「利己利他4分類」で言えば「利己中心」にあたり、魂のステージは残念ながら低いと言わざる負えませんね。
今回、血液や金銭で例えた過去記事も再掲しましたが、「得るために奪う」という概念は、人間のステージにまで登ってきた魂の本来あるべき秩序、
「得るために 与え、そして得られる」というステージ以前のもの。
それら行為はそのまま、自分自身を体現として表しています。 私たちは自分自身の姿勢、あり方によって霊性や精神性と呼ばれるもの、
言い換えれば魂なり心の位置、ステージを自分自身が作りますし、
ひいてはそれらは因果となり、こうして私たち自身の境遇は自分自身で創っているのです。

実際、それらが数多く例として観ることのできる、「まとめサイト」が世には数多くあります。
人のものを欲しがる、時に盗む、ウソでごまかす、こうした人々は、たしかに首尾よくもくろみが成功し、バレないこともあるかもしれません。
ですが、それであっても、その心の姿勢が反映した因果、悲惨な結末を迎えやすいのです。
世の中には冤罪で刑務所に入れられる方ももちろんいるかもしれませんが、それであっても長い刑務所での暮らしをせねばならなくなるのはそうした人々がほとんどです。
日々の姿勢が反映し、私たち自身が自らの境遇を創るからです。

これら奪うという姿勢、概念、「利己中心」とは逆に、もし私たちが「利他」を軸とした姿勢で生きたならどうなるでしょう?
幸福がやってきます。
いいや、そんな抽象的な証明もできもしない話はごめんだと思う方もいるかもしれませんね?
では類推推理になりますが順を追ってみてゆきましょうか。
心の姿勢が、得るために奪うという概念、「利己中心」では、その姿勢が反映し、結果望まない不幸が訪れるというのはよくお分かり頂けたろうと思います。
長い刑務所での暮らしをせねばならなくなるのはそうした人々がほとんどですからね。
これが平和的な共存共栄の状態である「利己利他混在」に姿勢が変わってゆくと、悪因の種を撒くことがなくなり、望まない不幸は当然自身にやってくることもなくなります。
もちろん過去の因果が還ってくることはあるとは思いますが、「利己中心」であった時のように悪因を振り撒いているわけではありませんからより穏やかな人生となります。
さらに進み、「利己中心」の概念、「奪う」とは真逆である、他者に益を与える「利他」がその人の概念の軸となったなら、
同じく善因が自分自身に還り反映することになります。 「利己中心」が常だった時には人は望まぬ悪因が自身に還り、不幸を味わっていたわけですから、
この真逆の「利他」の姿勢で送る人々が振り撒く善因がその人に還るのはよくご理解できることでしょう。
人が幸福になるには、奪って得て悪因を積むことではなく、幸福の元となる善因を他者に向けることなのです。

以前に書いた記憶があります、国のカルマを例に挙げてゆきますが、
世界各地に数百と国があれども、日本を知っている外国人に最も人気があるのは日本なんです。
日本人は民度が高いからだそうです。 人気タレントにボビー・オロゴンがいますが、彼は日本で商売のためのお金、500万円を紛失し、
途方にくれたことがあったそうです。 しかし、その紛失した500万は見つけた人が警察に届けていていた。
ボビー・オロゴンはもし紛失したのが自国であったならまず戻ってこないのに、ネコババもせずに警察に500万を届けてくれた人がいたのを大変に驚いたそうです。
これがきっかけで日本を好きになり、日本に住むことを決め、今では日本人の奥さんと子供たちに囲まれています。
日本では昔から、落し物を見つけたなら警察に届けなさいと幼少の頃から親や教師や大人たちからごく自然に教わっています。
お金を拾ったならネコババをする人が他国に比べて極めて少ない。
他者への思いやりを優先するように育てられ、モラルや道徳心、言い換えれば民度といったものが非常に高い。
他国では日々生きるのに凄惨な思いをして生きている人たちが大勢います。
しかし今日本で生まれ生きている私たちは世界各国の現状と見比べても大変に恵まれています。
私たち日本人が今この大変に恵まれた日本に生まれ生きているのは、決して偶然なんかではありません。
私たち自身がその魂のステージ、自身の精神性を高めてきたからこそ、それに相応しい世界、日本に生まれているのです。
他国では今でも戦争や内戦、そして女性や子供、老人、こうした人たちが不当な暴力等で虐待されたり殺されたりしています。
罪もないのに強制収容所のようなところで過酷な生活を送っている人々も大勢います。
生まれた瞬間から飢餓に覆われている国に生まれる子供も大勢います。
運良くこの日本に生まれた私たちは、そこから転げ落ちることなく、自身の日々の姿勢を保ち向上に務めてゆかねばなりませんし、
自身がこれまで勝ち得てきたのと同じように、利他、それはさらなる善因によって益々私たち自身は幸福となってもゆけるのです。
利他性の高い集団や民族や国家は必ず繁栄し、人々も幸福になります。
もし集団や民族や国家が、奪うことや戦争を好むなら、それらは反映します。
世界には様々な国があり、モラルや道徳、民度に違いがありますが、必ずそうしたものはそれら集団や民族、国家に反映をしているのです。
実際、犯罪の多い国はそうした質を持つ人々が多大な因を撒いてはそれが国家の問題として反映しています。
国家や集団が抱えている問題はすべて、その人々、集団が持つ因果の反映したものなのです。
もし少しでもこのことを疑ったり疑問に思うなら、ぜひ各国の現状をつぶさにみつめてみてください。
世界の国々の中には国家レベルで他国に対して嫌悪を抱かせるように洗脳や教育、時に嘘をすり込んでいる国さえいくつもあります。
六道輪廻で言えば、この地において生きながらにそうした境遇を自身が招いているのです。
飢餓の国は餓鬼道でしょうし、戦争を好む国は修羅道かもしれませんし地獄道の側面もあるかもしれません。
穏やかな国は人道でしょう。 しかし、様々な国に住む人たちの中で最も人気が高く、治安もよく、水と安全はタダの国とまで言われ、
自分の損得でモラルを踏みにじることなく他者への思いやりを優先する民族、日本人。
日本人は地球の中では一、二を争うくらいにディーヴァ、天人に近い生活をしてると言えます。

他国が日本を愛する理由
https://www.youtube.com/watch?v=r9FZSHGyy8g
テキサス親父 https://www.youtube.com/watch?v=Ua9MNSok8H4
金庫 https://www.youtube.com/watch?v=srFQfGY_jNA
https://www.youtube.com/watch?v=hj5N8SsyohY

他国からみた日本
アジアの人は日本人をどう思ってるの? https://www.youtube.com/watch?v=9RCWrJP-AaQ
日本はなぜ世界から好かれているのか? http://blog.livedoor.jp/zzcj/archives/51805696.html
世界で日本は最も好かれている国の一つ? http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1430006859
世界は日本が好き? http://juditfan.blog58.fc2.com/blog-entry-67.html
日本や日本人のことを好いてくれる国を紹介 http://matome.naver.jp/odai/2136085278019553701

パラオ https://www.youtube.com/watch?v=cTRfPNEPR-A
台湾 https://www.youtube.com/watch?v=Xrq9EZlaWHk
ブータン https://www.youtube.com/watch?v=CHobOdq3hJU
トルコ https://www.youtube.com/watch?v=zDmVYGF9tsE

お断りしておきますが、私は人種差別の趣味はまったくありません。
ただ、現実は知っておく必要があると考え、以下に動画を挙げておきます。
http://www.youtube.com/watch?v=qcocx_ywl5U



日本で生まれ育った私たち日本人、そして、他国籍であっても縁あって日本で育った人々、
こうした人はみな、それは自身が培ってきた恵まれた因果の結果によってこの日本に住んでいるのです。
どうかこのことを大切にして欲しいと切に思います。
こうしてみても分かるように、日本人のそのほとんどは、おおまかに大別した二種類の人として考えるなら、志しある善良な人々なのです。


ここでもう一度、以前記しました記事の中から引用をしておきます。

私たちは日常の生活の中で、理想とされている道徳を守ってさえゆけば霊性精神といった、魂の向上もしっかりと望めるんです。
日常生活の中にこそ私たちの大切なものがある。
なぜならこの地こそが私達魂の今学ぶ地であるからです。
現世にいながらあの世のことばかり考えたり、
やたらと神頼みばかりしていても向上には繋がらないと私は思っていますからね。
高尚そうに神はああだこうだと唱えるよりも、
私たちの今生きるこの地で、
隣人を助けてゆく、
そのほうがよほど尊い。

また別の記事では以下のように記しました。

 私たちの霊性精神性の向上は、日常生活の中にこそあります。
神々に依存をしすぎても実際は向上をしませんし、
やれ禊だの何かの儀式だのといったものでなければ向上をしてゆけないのではありません。
もしもそうしたものでなければ向上をしてゆかないのであれば、
そうした文化のない国々生まれ、生活をしている人々は向上の機会がないということになってしまいます。
しかし実際はそんなことはありません。

例えばですが、心身の浄化を例にたとえてゆきますが、浄化とは神に祈りを捧げたり、祝詞やお祓いのようなものを指すわけではないのです。
それらがまったく意味が無いとは言いませんが、あくまで補助的なものと言えます。
(部屋のゴミや散らかりようと、うわべだけの掃除に例える)
(なんたら浄化遠隔ワークだかで浄化されることはありません。 商売に都合がいいだけの概念であって、伝統的なものにそうしたものはありません。 そうしたものはカモに対する便宜上の詭弁なのです。)


どんなに神に祈ろうが祝詞だろうが宗教的な儀式であろうとも、またそれが遠隔なんたらワークであろうともですが、
部屋の中が散らかっているのは少しも改善はしないのです。
もし、部屋の中を綺麗にしようと思うなら、自分自身がその部屋を掃除してゆかねばいつまでたっても散らかったままなのです。
何かに頼ることで部屋の中が綺麗になることをアテにしても一向に綺麗になりません。
まずは自分自身が実際に部屋の中を片づけ、掃除してゆかねば綺麗にはならないのです。
(現代スピの中でも商業スピと言われるものは、この、人々のショートカットしたがる気持ちや、安楽を選びたがる部分を巧妙に突いてきているのです。
ですから、今現在のスピと言われるものは甘やかしであり、商業的に都合のいいように歪曲をされて形成されていった部分がとても大きいですし、
そうしたものなのだとすっかり浸透してしまっている風潮すらありますから、
スピ関連グッズや有料セミナーもそうしたものが誇張されすぎています。
例で挙げるならパワーストーンが代表格。


さらに別の記事からも引用しておきます。

よく、愛はああだの、大愛だのと口にされる方がこうした精神世界系やスピ系と呼ばれるブログ、その管理人、
読者問わずおられます。
でもそうした口からでる愛と、
実際の行動、違う人が多すぎます。
愛だなんて言葉は本当ははずかしいから使いたくはないんです、(私の名前のあて字は、ある時人につけてもらったものです。)
でも今日は言います。
もし、愛がなにかを少しでも知っているのなら、自分が可愛いからとかいった、自己保全でかしこい大人をキメこむのはやめて欲しいと思うのです。
人々に対する、社会に対する、みも知らぬ隣人に対する実際の行動こそが、その人の本当の愛の大きさなんですよ。
もし、加害者側にだって幸せになってほしいと思うのなら、
私たちは、あなたは、人を、私達が実際の行動で助けていかなくちゃいけないんです。

例えば親子がいたとします、子が悪いことをすれば、まともな親は止めるはずです。
それを、愛だからとか許しだからとか、歪曲されて使われてしまっているのが今の現代スピなんです。
許し一つでも本当は非を認め、詫び、反省をしてからはじめて許しになるものなのに、
今では歪曲されたエセスピを信じて頭で考えて覚えようとしてる人が多すぎるからこんな現状なんです。

人々に無関心にならずに、人に益であると思えばどんどんしてゆく。
それは、大切な家族に向けるがごとくです。
愛する人に向けるがごとくです。
大切な自分に向けるがごとくです。
自分を愛するがごとくになんです。
私達には本当は他人なんていないんです。
まるで愛する自分に向けるがごとく、人々に、社会に、みしらぬ隣人に、益となることの全てを向けるんです。

すごく簡単にまとめすぎですけど、人間の霊性精神性の向上はこれこそがメインであり、大きな柱なんです。
でも、そんな向上の部分すら、普段意識になく、忘れていなくちゃだめなんですけどね。
それそのものが目的なのか、なにか別のことへの手段なのか、それがとても重要なんです。
何かに対する手段にするという意識はあってはどうしてもだめなんです。
目的に対する純粋さが失われたらその価値はとても薄っぺらなものになってしまうからなんですよ。
いや、薄くなったっていいじゃないかと思う人もいるかもしれません。
でもなんらその人の霊性精神性には結びつかなくなるんです。
打算は愛でなく、取引の心だからです。
それは人の霊性精神性を押し上げてくれる「愛」ではないから。
霊性精神性の向上を阻む邪魔ものそのものです。
そして、できたら霊性や精神性の向上につながるからする、そういう意識すらも消し去ったほうがいい。
そういう意識はものごとを手段としてしまうからです。
これが人の日常での究極の心のあり方なんです。
これは必ずその人を、「見性」、わかりやすく言えば「悟り」に連れていってくれます。
(私の見性は段階としてはまだ最下位か下から2番目位だと判断しています。 見性に関しては他の記事を参照されたし。)
神通力はその間の過程で、おまけとして勝手に備わります。
こうした精神世界系にもあやしい商売がはびこっていますから、
やれ瞑想だのヒーリングだの過去世だの、一見派手なものに多くの人たちは目を奪われがちですが、
私が時折、ブログ文中で日常こそが霊性精神性の向上に最も大切だというのはこういうことなんです。




ここで、悪因悪果の様子がよく伺える、「まとめサイト」のリンクをしておきます。
クレクレや他人のものを盗む人がどういう結末を迎えやすいのかとても参考になると思います。


ポン菓子を作る機械を盗んだ泥ママが凸してきた
http://ikumamasokuhou.com/archives/29259433.html
パズドラついにパクられる
http://vipsister23.com/archives/6329429.html
クソ嫁と離婚しますた
http://blog.livedoor.jp/chihhylove/archives/6534549.html
海外出張から帰ったら、自宅が盗まれていた
http://2chcopipe.com/archives/51850447.html
カーナビを盗んだDQN一家が我が家に凸してきた。
http://ikumamasokuhou.com/archives/29420174.html
旦那のロレックスを盗んだ泥ママが盛大に自爆した。
http://ikumamasokuhou.com/archives/28380928.html
ベランダで作った干物をクレクレされた
http://www.kitimama-matome.net/archives/18711682.html
おいはぎ母子の犯行理由が人道を超えすぎている件(殺人未遂)
http://kijonotakuhaibin.com/archives/28643849.html

http://thailog.net/2013/07/26/1372/


クレクレとか他人のものを盗む人の根底は、ネガティブなもの、妬みやひがみがあるからです。
もし、誰かが自分は盗癖があると感じたなら、他者に対するこうした嫉妬心を抱かないよう鎮めてゆくのが一番いい。
それには、他人の幸福を喜ぶことです。
自身の幸福のごとく、他人の幸福を喜ぶことです。
私たちの幸福は、一見つながりがないようにもみえる、他人の喜びを満たす中にこそあるのです。


2013/7/29 23:58 愛上王

 私の記事で何かしらよいものがあると思われる方、
どうぞよろしくお願いをします。

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