本物かもしれない神示


 本物かもしれない神示

 私は精神世界系統のブログやサイトでよくみかけます、最近ありがちな、精神世界系統での、何かの二番煎じを狙っている風に見えてしまいがちなもの、
「人間の偏った経験的学習的な偏った文面」で想像で作られているとわかるタイプの、「創作神示」は当たり前ですが否定の立場であります。
詳細に読めばインチキモノと即解るものを人に勧めたりするようなことはありません。
過去にはア○○氏の他所を読んだ上でのまるパク神示や改竄神示。
そしてア○○氏とつながりがあると情報を幾つも頂いておりました天地さんのアマテラスであるかのように仕立て上げた偽神示。
そして同じくア○○氏とつながりがあることをお寄せ頂きましたコノハナ○クヤの偽神示。
(これらの偽神示の具体的特徴や詳細は当ブログで幾つか記事にしてあります。)
こうした、つぶさに冷静にじっくりと観察をすれば偽神示、インチキとわかるものが数多くあります。
当ブログで普段あまり話題として扱っていないだけで、実はとあるランキングサイトにはそうしたブログがうようよと存在しています。
私としましては、普段それらのブログを名指しをしたい気持ちはあるんですが、そのインチキぶりやその兆候などが小さく、
人々に示しにくいと判断します時は、話題として扱うのをやむなくですが断念をしているわけです。

想像で書かれた創作でっちあげ神示の見分け方は当ブログでも散々扱ってはきましたので、その主要な見分け方は過去記事を参照して頂きたいですが、
今一度ここで重要なポイントを挙げておきますと、神様や高級神霊かのように装いながらも、その「寄り代」を演じています方の、それまでの人生で培ってきた、
もしくはスピ系の読書なりそうしたサイトなりを読み進めて身についてしまった、かたよった垢のようなもの、と言えばよいでしょうか。
触れてきた知識や考え方の影響がそっくりにじみ出てしまっている文面である場合が非常に多いのです。 (これらの詳細も過去記事を参照されたし。)

過去のコノハナ○クヤで言えば、創作であったことがバレた時のごまかし方にその人物の慌てぶりや適当な考え方が、本来神様からの神示あるはずの文面にそのまま顕れていましたし、
( この時の様子は、ニセ霊能者、芋づる式で様々な動き   ニセ神示の見分け方 続報 ニセ神示の見分け方 )

アマテラスを騙った偽神示ブログの具体的な兆候などは、当ブログのメニューの一つであります、「霊能とニセチャネラー問題」の中で複数の記事で詳細にそのしるしを挙げております。
他にはここ最近ですと、モーゼやら高橋信次などを騙ったブログや、
自動書記と言い張っていたとあるブログでは、インチキと見透かされたあと、都合良すぎなのですが言い訳になってしまっている自動書記のフリをしているのが益々露呈してしまっている霊感商法ブログ、
そして相談者と回答者が一人二役、大勢の相談者と回答者の役を演じ続けていたブログなども見つけました。 
これらは創作だと人々に示しやすい特に目立つ兆候が浮かび上がりましたので、名指しを控えた上でですが、そうしたブログの存在をほんのさわり程度ですが公表したわけです。 
(これらに関しては、当ブログのここ1ヶ月前後の記事を丹念に読み直されてみてください。)
こうしたようにですね、創作の神示やチャネリングと称したり自動書記だとか言い張られる方々の99%は人間の偏ったそれまでの人生で培ってしまった、
偏った傾向がにじみ出た文面として顕れやすく、冷静につぶさに観察をすればですが、インチキと判るものがほとんどなわけです。

では本物の神示は世にまったくないのか? そう問われる方もおられることでしょうね。
「神示」という言葉そのものは近代語なわけでして、神示中で神々などが「神示」などという近代語、現代語を使うわけがありません。
たとえば神々が、現代スピブームを迎えた以降の、ここ数年で意味合いに変化が生じました、「気づき」などという、
人間のスピブームによる都合で意味合いに変化が生じた言葉をですね、意味合いが変わった以降の意味として使われるようなことも当然ながら不整合であり、ありえないわけです。
なのですが、そうした矛盾もなく、
また、創作でっちあげの場合と違い、人間の生活環境や習慣によって培われてしまった偏った傾向の文面になっておらない、
本物と思われる神示を実は以前から発見しておりました。
その神示での本物と判断しています他にもある重要なポイントは、

「道理に適っているかなり親切なわかりやすい内容になっている点。」

ただですね、この神示の寄り代役となられた方がどれだけの霊性精神性悟性かについては触れないでおこうかと思います。
寄り代役に適しているか否かとそれらとはまた別だからです。
公正に判断できる人物であろうと判断されれば神々はその者を寄り代役として選ばれることは十分にあるわけですし。

さて、その本物であろうと判断しています神示の名は、
   「神人」氏を名乗る方のほうの「日月地神示」。http://www.geocities.jp/oneness3456/hifumihp/index.html

その内容がどういった道理になっており、整合性があると判断したかと言いますと、
例えば『て』の巻では、http://www.geocities.jp/oneness3456/hifumi2/te.html#te
「御魂に応じて住む世界が変わる」という部分がありますが、これなどは「見性」で得た私の過去原稿、思想概念と一致しています。
魂自身で選び進んだ精神性や霊性に応じた世界に、自分自身が進路を決めていることを表した一文。

同じく『て』の巻になりますが、妙に気にかかる文があります。
それは「これ、あいうえおである」と記された箇所とその前後の文。
古より伝えておりた秘文、これに預けておるから尋ねよという部分なども。

「日月地神示」は2006年より始まった神示のようですが、
過去もそうですがこの時点で精神世界系統で「あいうえお」を名乗っていた者は私以外には知りません。
するとこの記述は私である可能性が高い。 (注へ。

「御魂に応じて住む世界が変わる」など、例を挙げてみましたが、これまで私が見性で掴んでいった真理、過去に原稿や記事にしてきたものと一致しています。
現在その大半を当ブログでは非公開にしてしまっております、17年前から書き綴ってきました私の主要原稿にあたります、「上を向いて歩こう」など、
概念の部分で一致するものが妙に多い。 (現在大半を非公開ですので、概念で一致するものが多い点は出版後にでも読み比べてみてください。)

とは言え、私は誰かに教わって真理を覚えたということはないんです。
真理と言えるものが湧き出てきて文にしたことがあるのは大抵はあの年末年始恒例の、
見性状態を取り戻すべく行う断食行の時に記してきた文が主になります。

いにしえから伝えてあるという秘文の解釈ですが、
いにしえから生きてきた人などのわけがありませんから、
実際は「秘文」と指す箇所は真理を指し示したものであろうと判断しています。
すると私が見性に手が届いた時に記した文面にそれはあるであろうと。
2000年年末から年始にかけて書き上げた初の見性時に書き上げた文をここに再掲しておきます。
(2001年年末年始は第二見性期。 この時の文面は第二部の大半。 三部の主要文も見性時の時のものです。)

以下、「上を向いて歩こう」第一部終盤より。



 【 より愛されるために 愛 】

 恋愛は一種の人間的な小さな積み重ねの訓練であって、最終的に研磨された時に完成し、
これに結びつくゆえに人間の愛と云うものは深い意味と高い価値を持っています。
遥か先のこの段階は「至上愛」であって一般が指す「恋愛」ではありません、
相応しい言葉が思い浮かびませんが、敢えて呼ぶとしたら博愛や大愛といったものかもしれません。
この一切すべての者を愛する者となる時に至上愛は完成するのですが、これに至るには段階があります。
愛する為には愛する者の欠点を自己の中にも内在する写し絵と捉えて許さねばなりませんね、
それではここで一つ簡単なテストをしてみましょう。
 あなたの愛する恋人が突然あなたの大嫌いな人の姿になってしまいました、顔も姿も行動や性格までもです。
さて正直に答えて下さい、今までどおり愛する事はできますか?
身体的特徴ばかりでなく性格や行動、言葉、
こういった一切が今たとえにした人物と寸分違わずになったとしたならばあなたは愛せるのか?
たとえどう変わり果てようとも愛しているともしあなたが答えるならば更にお聞きします、
あなたの愛する人が突然容姿や性格、その他全てが変わり果てても愛せると云うならばなぜその者にだけ執着して愛するのか?
この問いは多少無茶のある事ですが非常に大切な部分なんです、
姿がかわり果てたならば愛せないと答えるならばあなたは相手が年老いて醜くなれば今の愛を持続させる事は難しい、
姿がどう変わろうと愛せると答えるならばあなたは人間的心の段階としては高みにいると云えますが更にお聞きしたい、
今愛する者がどう変わろうとも愛するならば、その他大勢の姿形や性格も全く異なる別の人たちを今愛してる者と同じ様に愛さないのはなぜですか?
2000年も終わりに近づいた年の瀬にこの心のテストを自分で作成し、実際に私が自分でやってみました、
愛する者の姿形、行動や性格すべてが最もいとわしい者であると仮定して。
うーん 難しい・・・ 正直答えましょう、今の私にはまだ無理でした。
このテストをしてみてどんな姿形に変わろうとも私はそのいとわしい者の姿や全てを愛せると答えられる方もおられるかもしれませんね?
しかしそれは嘘になります、その答えは偽善なのです。
愛せると答えたら偽善? これではテストは無意味、問いにもならず答えもないのでしょうか?
どのような姿形や性格の者に成り果てても愛せるかという問いですのでここではわかりやすくもっとも自分が嫌いな者、
最もいとわしい者を私はひきあいにしたわけですが、この嫌いな人物をこのままで愛せるわけがありません。
ここに行き着くにはこれを成す為の土台が必要です、それは全てのいかなる者も愛する以前に、全てを許すという事。
これをもってして初めていかなる姿形であろうとも愛する事ができる。
ではいかにしたら全てを許せるようになるのでしょうか。
私たちのミクロなる個における通常の恋愛は、もっとマクロな人間の完成という視点からみつめた途上のものであり、
私たちの心の成長の度合いそのものは愛の大きさにほかなりません。
それは人間的相対的な偏った執着が含まれた、一部の者を愛するという成長段階から全ての一切が同一であると知り、
差異なく愛するというゴールに向かう迄の途中の形態、この途上の形態こそが私たちが住む世界における一般に指す「愛」。
この心の成長度合いともいえる愛の大きさは目で見て測れるものではありませんから説明が困難ではありますが話を続けましょう。
利己心が強く愛の小さな人もいれば愛の大きな人もいるように、愛とは実際に育つものなのですが、
愛の大きさがある程度強くなってゆきはじめると、人は許す気持ちそのものである寛容心が愛と共に一緒に大きく強くなってゆくのです、
寛容心とは愛ゆえのもの、愛の側面の一つだからです。
そして私たちは実はどんな人であれ、この自己の中にある愛、恋愛をも含む全ての愛を実は日々大きく育てようとしています。
これはエゴの強い人であれ犯罪者であろうと一切の例外なく全ての人がです。
これを読まれている読者の中には、私は日常で愛など求めてはいないと言われる方も中にはおられるかもしれません、
ですがそうやって否定する事すら愛を求める一つの形態なのです。
例えば誰かが著者である私を嫌いとしましょう、これすらもその人にとって愛で満たされたいゆえなのです。
(注、私に愛されたいというのではありません。)
あなたは悲しい時涙する、寂しさを知り、痛みをも知る、これこそ愛を求めてやまないしるしなんです。
こうやって誰もが必ず日々例外なく愛を求め続けているのです。
そう、私たちは実はこの肉体的本能や人間的執着が根底である恋愛以上のものを何よりももっとも求め続けて生きてきたのです、
その求めつづける姿は満たされるまで続く渇望。
「私たちは実は一切すべてから愛されたい。」これは誰もが全てにおいてです。
一切すべてから愛されたい、これをわかりやすく言葉や文章にする事は非常に困難なのですが、幾つかの例えをしてみたいと思います、
これは心で感じ取るものであって、言葉や文章といったもので言い尽くせるものではありません、
ですので書き進める例えを何度も何度も読み直して下さいますよう強くお願いをします。
 ある者が自分の欲する事をする、求める事を行う、これは愛されたいゆえになのです。
え? これではわからない? 確かにそうですね、では話を続けましょう。
ある者が恋人を欲しがる、それはその様に願い、その様に叶い、
その様に成り得た時の恋人との様々な生活が、「本来奥底で求めていたもの」を満たせると信じているからです。 
その私たちが本来奥底に求めているものとは絶対不変の愛、絶対幸福と言いかえても良いかもしれません。
この自己の絶対幸福状態である全てにおいて愛される事を望むゆえに私たちは日常で様々な差異や不幸までも自ら生み出しているのです。
さあ意味がわかりずらいですね、例えを続けましょう。
ここではあるやくざが居たとしましょうか、このやくざはお金を求める為にある時は自己に都合よく暴力をもってそれを為す、
女性を求める時、ある時は正攻法に口説き、またある時は暴力であるかもしれない、そしてある時は欺瞞によって。
またある時は権力を求める、他人と競争をし、ある時はたくらみ、人を蹴落とす。
全ての思考と行いが、「愛」されたいが為に人は顕す・・・ 奥底で求めているものを掴む為に。
そう、私たちは何よりも心から求めているものを掴むために見誤ってしまっている、
全てが実は代替え行為。 だからこそ実はいつまでも満たされないでいるのです。
恋人を求めるのも
友達を求めるのも
お金が欲しいのも
出世をしたいのも
尊敬をされたいのも
立派な家に住みたいのも
立派な会社に勤めたいのも
美しいくありたいのも
綺麗な服を着たいのも
愛を終らせ別の人を求めるのも
嫉妬をするのも
憎むのも
争うのも
これみなすべて奥底で求めていた不動なる絶対愛に満たされたいがために。

殺人犯であろうとやくざであろうと例えどんな人であっても、
奥底で求めていた絶対愛に満たされた時、一切の悪行は消える。
もう満たされずに盲目となって他の事に求める事をこの瞬間に終える。
善い事も悪行すらも、求める愛で満たされたいゆえに私たちは欲望を放つ。
これは私もあなたもかわりない、求めてやまない欲の根底は清浄なり。
あなたがその様であるならば私もその様な者そのもの、
これを知る時一切のものに嫌悪する理由がここに消える。
私たち人間が求めている不動なる絶対愛を求むには同じく一切を愛する事、
一切を愛するには一切は清浄で差別がないと気づく事、
至るには、一切の人の成す事象は清浄なる欲ゆえであると知り、
清浄なる欲から発露する誤った悪行すらも許すと云う事、(行わせてはならないが。)
嫌悪が消え去る時、全てを許す自己を見出す、
いかなる者も許した時、私たちは一切を愛する者と成る。
一切すべてを愛した時、私たちは奥底より真に求めていたもの、一切すべてから愛される、
どんな悪人であれ、一切すべてを愛する者となった時、一切すべてに愛されて罪は消えさる。





Copyright (C) 1996-2003 愛上王 All right reserved


 私は、この世界がより平和に、人々が悲しみや不幸から抜け出し、人々がより一層幸福になり、
霊性や精神性を高めてゆくのに必要な基本的な根底部分にあたるものがこの2000年の年末から翌年年始にまたいで書いた上記の文にあるのだと考えております。




(注、
過去に当ブログにおきまして、ア○○氏の元側近らの訴えにより、ア氏と私との間で色々とありました時期、ア氏側ブログで暗に私を指して「ての巻」を記事として示されたことがありました。
私もこの時点で「ての巻」の記述は私を指しているであろうことは理解しておりました。
余談ですが、21年前、はじめて今現在のネームを使い始めた時点では、シンプルにかな表記の「あいうえお」、
ネットが流行る前のパソコン通信時はローマ字表記しかなく、IDは「AIUEO」、そして時に母音だけで構成された王という意味で「あいうえおう」を主に使用し、
過去記事でもお話しましたが、当て字である漢字表記は後に人に付けて頂いたものです。


2013/9/9 0:37 愛上王

 私の記事で何かしらよいものがあると思われる方、
どうぞよろしくお願いをします。

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