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現世利益について 1

JUGEMテーマ:スピリチュアル
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 現世利益について 1 2009/10/6 

 ご無沙汰をしておりました、愛上王です。
ここの所、忙しい上に、さらに追い討ちをかけるように新型インフルエンザに罹ってしまい、
更新どころか毎日寝込んでおりました。
そんなわけでありまして、ようやくの更新です。


お題としましては、「自身のあり方、人は成りたい人になれる」や、
「強い愛情にする法」と称してはじめました「心の距離」など、続きも書きたいのですが、
今日は多くの人が興味を持っているであろう【現世利益】について考察をしたいと思います。

読者の皆様にはいきなりの質問ですが、
【人はなぜ、巷で言う所の「スピ」なり、「自己啓発」なり、
「○○の法則」だのといったものに関心を寄せるのだと思いますか?】

たしかに、中には立派な人格者になりたいからだという答えも一部にはあるかもしれません。
ですがそれは本心でしょうか?
人は世に生まれた以上、誰もが幸せになろうとするもの、私はそう思っています。
ですから、「非道徳な手段でなければ」の条件付には当然なりますが、
人間誰しも、自身が幸福になる事に異を唱えるつもりはありません。
すると、巷で溢れている、現世利益を追求する様々なもの、
○○の法則だの、スピだのといったものの中に見え隠れをする、
現世利益の部分に関心がゆくのは特に悪い事ではないとも考えています。
ですが、この現世利益、スピだの○○の法則だのといった物は、
最近の風潮かもしれませんが、いわゆる、「棚からぼた餅」や、労せずしての「他力本願」
といった面にばかり注目が寄せられている気がしてなりません。
それらの中で顕著な徴のキャッチコピーには、以下のようなものがあります。
「頑張っても成功しない人、頑張らずとも成功する人」
これではまるで、頑張っても人は成功をせず、
なにか要領のような、秘訣のようなものに頼ったりすがったりする方が得をするような響きすらあります。
しかし実の所を言えば、今巷に溢れている、この手のニュアンスを含む、
「現世利益追求モノ」は、実際は商売として都合がいいから存在をしているのです。
私たち人間は誰しもが人生の幸福を求めるもの、その私たちが関心や購買欲が高まりやすいように、
さもまるで「棚からぼた餅」のごとく、苦労せず成功するだのといった、
言わば怠け心を刺激されているのです。

人間は、労せずして対価を得る事は本来はありません。
もし、労せずして何かを手に入れたり、非道徳な事や違法な事など、
対価に見合うべきものなく何かを手に入れるなら、
対価ばかりではなく、人は必ずそれらの行いの質に沿った、人生にとってマイナスな物も同時に背負うのです。
例を挙げるなら、たとえばギャンブル。
これはとある国のことわざだそうですが、「憎いヤツがいるならギャンブルを教えろ」というものがあるそうです。
その真意は、賭け事を楽しむのではなく、人はいつしか賭け事に囚われ、
ギャンブルを知らずままでいたなら得られたであろう人生を棒に振り、
大抵の場合は破壊的な人生を自分から進んで歩む事になるからだと。
それは、平凡ながらも幸せな家庭が築けないことかもしれませんし、
家庭不和や家庭崩壊、果ては最悪破産や自殺など。
賭け事にはまって人生が大成するなどは絶対にないとは言いませんが、
極々稀であり、大抵は坂を転がるごとしでしょう。

またここで、毎度の引き合いになりますが、I氏の職場での話を例にしてみます。
I氏の職場はゼネコンなどの建設現場での下請けですが、
職務の都合上、お昼の食事休憩が前後をしたり、場合によっては短くならざる負えない事があるそうです。
この、休憩が本当に短かった場合はいいのですが、
I氏の同僚の中には、休憩が無かったか、短かった事にして社に報告をし、
虚偽の割り増し残業を給与として請求しようとする者がいるそうです。
確かに、労せずして一時的には得をするかもしれません、
ですが本当にそうでしょうか?
私は、労せずして何かを手に入れるなら、人生にとってマイナスな物も同時に背負うのだと言いました、
I氏のこの同僚は、確かに一時は得をするでしょう、
しかし、30分なり1時間なりの残業代をちょろまかして得た物はそれだけでしょうか?
否、I氏の同僚は、残業代半時間分なり1時間分なりと引き換えに、自分自身を進んで浅ましい人間にしてしまっていると言う事。
卑怯な事やずるい事、人に負担をかけたり迷惑をかける事が平然とできる人間に自ら進んでなろうとし、
事実そういう人間になってしまったという事。
もし、I氏の同僚がこういった行為を選ばなかったなら、
健全でまっとうな手段によって対価を得るのを自然としていたならば、
そんな一時のはした金ではなく、人々からの信用を得、
評価をされ、出世なり、【自身の、自身による正当な努力によって、もっともっと大成をする人生が待っていたかもしれない。】
対価に見合う労力や努力を避けて何かを得たがる人は、
自分の人生の可能性を実は狭めているのだ。

現世利益についてもこれが言えます、
神頼みや、先祖供養が目的なのか、実のところは先祖供養という響きでオブラートをした、
現世利益のための手段に成り下がってはいないのか?
先祖供養と言いつつ、実際は下心で擦り寄ってくる、「棚からぼた餅」ばかりの子孫を喜ぶ先祖がはたしているだろうか?
以前に「心をこめる 行為そのものが目的であること」でも述べましたが、
言わば心の持ち方、それは姿勢であり、【自身のあり方であり】、これら自身の、純、不純によって、
自身に還ってくる因果はガラリと変わるのです。



(私が愛や人生の成功について、テクニック的なものをできるだけ書かずにいるのはこれらがあるからです。
読者の皆様には、そして多くの皆様には、どうかより素晴らしい人生を、
より素晴らしい人間となって、得て頂きたいのです。
だからこそ言いましょう、 私たちには人生にマイナスなものを背負い込むような、小手先のテクニックなどは要らないのです。)

愛上王 2009/10/6 23:05



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