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偽霊能者と盲信者の行く末

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 偽霊能者と盲信者の行く末

 これまでに見つけてきました自称霊能者、そのほとんどは偽霊能者でしたが、
こうして見つめてきますと、彼ら彼女らには一般人とは大きく違う際立つ特徴があることがよくわかります。
それは平然と嘘をつくということ。
無論、普段の私たちも日常の中でとっさに嘘をつくことは確かにあろうとは思います。
しかし大抵の場合は、人を傷つけたり害を与えるようなものではなく、
「善意の嘘」の場合がほとんどと思います。
例えば、赤ちゃんはどこから産まれてくるのか?問われたなら、
コウノトリが運んでくるだのキャベツ畑で産まれてくるだのと言うのがありますが、
こうしたものは善意のものと言えるでしょう。

しかし偽霊能者の場合は、こうした善意の嘘ではなく、その偽霊能者にとって自身の益となる、
相対的に他人を陥れたり、不利益を生じさせるような、悪意の嘘をつくのが慢性化しており、
ウソがバレてもさらにウソで塗り固めるのが日常化しています。

当ブログでも名前をぼかしたりしながら、そうした偽霊能者の様子をつぶさにみつめてはきましたし、
引っかかる被害者の抑制のためにもこれまで話題にもしてはきました。
がしかし、明確な名指しをした上での彼ら彼女らの「ウソ」のそのほとんどは明示は避けてきましたゆえ、
ハッキリと名指しをした上で例を挙げてゆくのが難しい状況なのです。
ですから、今後も彼ら彼女らの直接の名指しをした上での「ウソ」は、「当ブログ」では直接は避けると思いますが、
今後もその人物が一体誰なのかをぼかした上で例を挙げてゆこうと思います。
これは当ブログを長く続けてゆくために必要なことなのです。

さて、話を戻しまして、とある偽予言者さんなのですが、
この方、2011年の3月に起きた大震災ですが、
さも地震が起きるのを前月に予言していたかのように起きた翌日に工作をしました。
その方はコレが重要なのですが、工作をしてさも前月に予言していたかのように振る舞う、その様子。
これはその様子からもウソを突き通す固い意思を感じさせますし、
前月に予言していたというのが実はウソだったのが証拠付きで世間にバレても、いまだシラを切るよう更なる工作を続けています。
バレた後はなんと問題の最重要記事である予言していたはずの前月の記事を削除。

この方ばかりではなく、偽霊能者のそのほとんどは、ウソやインチキがバレた後も平然とウソの上塗りで固めたり、
問題となっている記事や、中にはブログそのものを丸ごと消し去ったりなど、更なる工作に走られる場合がほとんどでした。
それは「天地がひっくりかえった」ような方や、神示を盗作してさも神示を神々から承っていたかのように振舞っていたアルク氏や、(この方は神示盗作の証拠が明確に出ましたので名指ししても問題なし。)
アルク氏にも絡んでいる、木花咲耶姫から神示を受けている「フリ」をしている方。
他には大○輪という、イエスキリスト宣言をしてはいたものの、内部告発で女性信者に不倫やハレンチな事を告発され、
サイトで問題の記事を消しまくって工作をし、最後はサイトごと消し去って逃げていった方など、
数え上げるとキリがないほどインチキさんらは数多くいるわけですが、

私が不思議に思えてならないのは、こうした、たとえ形ばかりとはいえ、まがりなりにも「精神世界系統」、
中には神々に関したものに触れているそうした偽霊能者ら本人や、その人らのウソやインチキぶりが明白になった後も信じようとしたり、
中にはインチキ霊能者に対して無理な援護をする人たち、
こうした人達の様子が不思議に思えてならないのです。
それは、こうした精神世界系統に多少なりとも関心を寄せたり関わっている以上は、
大抵の方の場合、因果応報論、いわゆる「カルマ」と呼ばれるものを、程度の差こそあれ多少は理解しているはずだからです。

ウソで塗り固めて人々を騙し、その上で自身の益に繋がるようウソをつく者、偽霊能者。
そのウソがバレても信じようとしたり、中には援護をしようとする者。

それが一体、どれだけのカルマを自身に積んでいることになるのか、
なぜそのことから目を背け、悪行を積み、続けてゆくのか。
それが不思議で仕方がないのです。

私自身は、証明のできないことを絶対だと言いはる気持ちはありませんし、
だから信じろなどと人々にむやみに吹聴をする気持ちもありはしませんが、
それでも、人は死んだ後に、その行いに相応しい場所に行くという、
昔ながらの定説のようなものを信じています。
つまり、善行を行った者は天に行き、
悪行を行った者は地獄に往くというあれです。

私は、天国や地獄というものを人々に証明することはできませんし、
証明できないものをむやみにこうだからああだからと話を進めても意味がないことは理解してはいます。
しかしそれでも、この私は長らく書いてまいりましたいくつもの文章の中で、
それであってもカルマ論はいくつも書いてきております。
このカルマ論すら確かに証明が難しいものではあるかもしれませんが、
それでも、人生の数々の実体験からカルマというものを噛み締めております。

カルマ論とは、簡潔に言えば、
人は、自身の行いに相応しいモノが自身に還ってくる。 というもの。

ウソやインチキで人々を騙し、その上で自身の益を図る者。
そうしたインチキさんらのウソをかばいだてたり援護する者。
引っかかる被害者を減らすどころか増やしてしまいかねないという、
偽霊能者本人の積んでいる悪行に勝るとも劣らないほどの悪行を進んで行なってしまうそうした行為。

こうした行いは、行いに相応しいものが自身に還ってくるでしょう。
インチキやウソで塗固めた偽霊能者を信じたり援護をすることと言うのは、
引っかかる被害者を増やす行為になっているだけでなく、実はそれだけで自身にも
悪いカルマを積んでいることになるのです。
「精神世界系統」や神々に関心があったり関わっている方のそのほとんどは、
本来は自身や家族の幸福を求めているはずです。
しかし、偽霊能者を信じ、かばいだてたり援護をするようになってしまうと、
正に本末転倒なことですが、それは一蓮托生、
人々や自分自身に悪いカルマを積み上げることとなり、
私たちはその行いに相応しい天や地獄に往くことになってしまうのです。

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ウソや偽を見抜く姿勢と愛を大きくする方法

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 ウソや偽を見抜く姿勢と愛を大きくする方法

 前回の記事でも触れましたが、(偽霊能者と盲信者の行く末
私たちは嘘をついたり、嘘をつく者を信じてしまったり、
中にはそうした人をかばいだてる人も世には大勢います。
そうした人達は自分自身にも大きな悪因といえるカルマを積んでしまっています。

こうした姿は、精神世界系統、とりわけ神を信じたり関わったり、霊性や精神性の向上といった、魂の向上を目指した姿とはかけ離れた、
本末転倒な姿と言えますが、
しかしそうした人たちの多くはこの重大な事に気づけず、
人々や自身に悪因を意識無意識かは別にして、平然と積んでしまうということから、
実際は霊性や精神性の下降を行なってしまっているのです。

今回、このテーマをいくつかに分けて書きたいと思いますが、
まず初回は、閲覧読者は勿論のこと、精神世界系統のカテゴリにてブログ主をされている方も含め、
こうした精神世界に触れておられます方々全般に言える事を進めてゆきます。


精神世界系統のブログやサイトが今や世の中にはごまんとあります、その形は様々ではありますが、
霊能関連や、浄霊除霊系、スピカウンセリング系、セミナー系、ヒーリング系、パワーストーンに代表されるスピグッズ系、後出しジャンケン予言系、神示系(99.9%偽ですが。)
大変に申し訳ありませんが、そのほとんどはいわゆるスピビジネスとして参入をされてきているであろう方がほとんどのようです。
なぜなら、要は何かに悩める人や、藁をもすがりたい人たちから搾取をするが為に、誇張やウソを駆使して商売に励まれている方があまりにも目立つからです。
こうした様子は日常の詐欺的な商売や、霊感商法などが連日のようにTVのニュースなどで流されており、
それらをじっくりとつぶさに見つめておられる方々であれば、そうしたあやしいスピビジネスになど本来は引っかからないはずなのですが、
人々は中々ウソを見破れずにいます。

なぜ見破れないのか。
実は見破ろうとしていないからなんです。
一度でも信じてしまったものを疑おうとは人間は中々しないものなんですね。
なぜなら一度信じてしまったものを疑うことは、
自分はニセモノを信じていた愚かな者と認めることになってしまうからです。
要はニセモノを疑うことを自分から拒否してしまうんです、これは自分自身が。
それは自分自身を守るために。
こうしたケースは盲信してしまった場合にあてはまります。


他にも疑うことをしないパターンというのもあります。
それは、世の騙される人々に関して無関心だからです。
自身に害がない限り、他者がどうであろうと関心がない、そうした心情の投影なのです。(魂のステージでいうと利己中心になります。)
今日は少々辛口なことも言わせて頂きますが、
おそらく、精神世界系統に関わっている方の半分はこうした方と思われます。
精神性だの霊性の向上、こうしたものが実際の行動とはかけ離れてしまっており、
単に言葉あそびのような結果になってしまっていると。
世間ではやれアセンションだのと言われてはいますが、残念でありますが、実際の行動がこのようである限り、
巷で騒がれていますアセンションなどはほど遠いと言えます。
なぜならそれには霊性や精神性の向上が必須と考えられるからです。

もし、幾ばくかでもそうした人々や社会の実害に関心があるならば、自分には関係ないとして知らぬふりをすることはありえないのです。
他者の幸福を自身の幸福と同じように考える人、そうした人はその魂の成長のステージを利他といいます。
(この魂の利己や利他の成長度合いに関してはできるだけ近日中に機会を設けて解説したいと思います。)
他人の幸福を心から願う、他人の不幸を心から悲しみ、できるだけそうしたことのないように出来る範囲で進んで努めてゆく。
こうしたことが私達は確かに忘れがちではありますが、とても大切なことなのです。
人としてそうあるべき、というのはもちろんですが、
私たちはこうした、日常生活で当然取り組み、自身のモノとして備えてゆくべき善性の心の姿勢をどんどんふくらませてゆくよう努めてゆかねばならないのです。
こうした霊的でもなんでもない、ありふれた日常のごく自然なものこそが、スピだの霊だのパワーストーンだのなんちゃら有料セミナーだのというものよりも、
尊く大切なモノなのです。
それを自然と振る舞える、自身の魂に備えてゆくこと、こうしたことこそが真に霊性精神性の向上であり、何よりの魂の成長だからです。

(余談になりますが、スピだの有料セミナーで高尚なものを聞きましただの儀式だのスピグッズを買いましただのをしている人より、
そうした他者に関心を寄せ、他者の幸不幸を自身のことごとく思い、行動をする者こそ、神は喜ばれるとは思いませんか?)

今回は、こうしたスピや霊能に関したことを引き合いにしていますので、そうしたものに騙される人の例を挙げているわけですが、
要はそうした人達に無関心であらぬこと。 また、騙す側の挙動を緻密に冷静に観察をし、自分には関わりのないこととして無関心に放置をせぬこと、なのです。

他者に無関心な人というのはですね、インチキや偽も実はあまり見抜けないんですよ。
それは無関心故に、普段の精査の度合いに限界がでてくるからなんです。
多くの精神世界系統に触れています閲覧をされている読者、そしてブログ主さんらで、
他の、偽霊能者に関心のない人達は、関心がない通りに、あまり見抜けていないんです。
そうした鑑識眼、精査、審神には、他者に関心を持つという、
人の幸不幸を自身のごとく喜び泣く、利他の姿勢がどうしても必要になるからです。


私は、まだ誰にも明かしていない、記事に書くのも控えています、
その人の愛の深さ大きさを30秒もあれば十分に測れる、ある方法を知っています。
その測り方は忠実に正確にその人の愛の深さ大きさを知らせてくれるものです。
私はその愛の測り方を人に知らせることはこの先もないかもしれません。
でも、人がそうしたものを知ろうと知るまいと、
実は私たちはいつも、人々に自分の愛の深さ大きさを見せて生活をし、人生を送っているのです。

「測り方」を人々にお教えすることはたしかにこの先もないかもしれませんが、(悪用されますからね。)
でも、愛を深く大きくしてゆく方法なら、沢山お伝えできると思います。
それは、人々に関心を持つこと。
人の幸福を自身のことごとく喜び、人の苦を自身のことごとく涙すること。

2012/6/8 1:21 愛上王

 私の記事で何かしらよいものがあると思われる方、
どうぞよろしくお願いをします。

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霊能者に怒っている人VS霊能者

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  霊能者に怒っている人VS霊能者




霊能者に怒っている人VS霊能者1-1


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霊能者に怒っている人VS霊能者1-3


霊能者に怒っている人VS霊能者1-4


霊能者に怒っている人VS霊能者1-5


霊能者に怒っている人VS霊能者1-6


霊能者に怒っている人VS霊能者2-1


霊能者に怒っている人VS霊能者2-2


霊能者に怒っている人VS霊能者2-3


霊能者に怒っている人VS霊能者2-4


霊能者に怒っている人VS霊能者2-5




上岡龍太郎ウィキペディアより抜粋。

>母親は厳しく、上岡が10歳の頃に早世したこともあり、あまり記憶にないという。巨乳であったことと、母が乳癌を発病した際に霊媒師・占い師などが詰め掛けて食い物にしたことだけははっきりと覚えているという。このことは、上岡の心にトラウマを刻み付け、オカルト物を徹底して否定させる原因にまでなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%B2%A1%E9%BE%8D%E5%A4%AA%E9%83%8E

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神○会のパクリ

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 神○会のパクリ

 神○会は頻繁に私の記事の焼き直しパクりをされているようですが、
いい加減にしてほしいものですね。


それはもう読めば分かってしまいます。
少し以前から、妙に私の記事の内容と被る記事タイトルが頻発していたので読んでみたらコレですからね。


ここ最近の記事ですと、かの方の2012/6/14の記事。
当ブログの元記事は2012/6/8の、「ウソや偽を見抜く姿勢と愛を大きくする方法」
このパクラーが誰なのか見当のつく方はかの方の2012/6/14の記事とウチの6/8の記事とをよおく読み比べてみるといいです。

どんなに工夫をして焼き直しをしようともですね、
うちの記事を読まねば書けなかった内容の記事である以上、
それはパクりというもの。

そもそも記事を書くためにネタ探しでうちを読みにきている時点でもはや確信犯でしかないんですがね。

さてでは、この方は当ブログを以前から読んでいたのか?
はい、以前からこの方は当ブログを読みにきていたんです。
当ブログで、偽神示を騙っている人らを記事で話題にしていましたのを多くの方は覚えておられると思いますが、
かの方はその偽神示の件で横入り記事を渦中の真っ最中に書かれてきているのです。
かの方のその該当記事の日付は2012/4/28
よく読むと分かりますが、その記事はうちを読んでいなければ書けない内容でありました。
何しろウチで扱っていた話題の時事ネタですからね。
要はこの方はうちを読んでいて横入り記事を書いてきたと。


この方はパクる時、パクリだとわかりにくくするために内容を焼き直しして工夫はしていますが、
そもそも焼き直しというのは、パクりとバレないようにしたいという心情の表れであり、それは工作なのです。



この方の他の記事も読んでみましたが、この方、うちのブログを読みあさって記事を書いているのと同じように、
あちこちのブログを読んでネタを探しまくって書かれている記事の多いこと多いこと。(例えばアルク氏の記事とか。)
それは、ブログ村の「精神世界」カテゴリーに参加しているブログをあちこち読まれている方ならすぐに分かることと思います。
参考にどころか、焼き直しをしてパクりとわかりにくくしつつも、
パクって書かれている記事というものはですね、
話題の中身、要はその文章の趣旨に、パクり元と同一のものが表れてしまうのです。

もうこの人は真正の確信犯ですね。

ブログ村「精神世界」カテのあちこちのブログを読まれている方は、
もしお暇な時間がおありなようでしたらこの方の過去記事をさかのぼって読み比べ検証をしてみると面白いことになるかもしれません。


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パクリの言い訳?

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 パクリの言い訳?

 長文で趣旨がいくつか盛り込まれていることをいいことに、詭弁ではぐらかしをするであろうと思っていましたが予想通りでしたね。
どの部分がパクリなのか一見わかりにくいよう工夫してあるのでトボケルとは思っていましたが。



無関心云々に関しているあたり全般と、(主な焼き直し部分。)
人の幸福を自身のことごとく喜び、人の苦を自身のことごとく涙すること。

↑特にこの部分はほぼ同じ表現。


そう、読んだ上で書いている。
内容がかぶっていたり、ひねって書いているものが他にもあるし、
なぜそれらが私のものより日付が後なのか。


追記
7年前にサイト開設したとかとぼけているようだが、これは言葉のマジックにすぎない。
記事そのものは2012/6/14に書かれてあるからだ。
そう、なんら関係がない。
関係ない話を持ってきて、さも正当化する姿勢からも確信犯なのがよくわかる。

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続 パクリの言い訳?

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 続 パクリの言い訳?

 以前に似たようなものを書いていたとか。
しかしそれを言い出したらキリがない。
もし、自身の如く他者に奉仕すべきといったことや、分かち合いといった細部に至ることにまで広げるなら、
私自身、このブログでも古くからのサイトでも相当に古くから書いてきている事実。
他者に向けた愛全般は「上を向いて歩こう」全体の根底とも言えるテーマですからね。

少し挙げてみますが、

「カルマの真髄を一言で表すなら」
http://firstdoor.jugem.jp/?eid=263

他者と自身の分かち合いの概念はこれも10年位前に書いたものですが、
「長い箸」
http://firstdoor.jugem.jp/?eid=149
他にも今日現在公開を一時中断している「利己利他4分類」の中では利他や合一といった表現で書いています。

今自分で当ブログを眺めていましたら、この利己利他4分類ですが、他の記事の中で引き合いにしていたようで、
現在も読めるようです。
「プロローグ  利他心、自他同一について」
http://firstdoor.jugem.jp/?eid=281
またこの中ではこれらの概念として以下のようにも記してあります。
>自分も他人もなく、本当はみなすべてがひとつなのだと自覚する生き方を人々がするようになる時、 


少し挙げただけでもざっとこんな感じですが、
こうした、私達が実は他者と一体であるといった概念は、当ブログではそれはもうあらゆる記事にまで及びます。
いくつもありますが、たとえば2002年頃にはじめはhttp://www.osk.3web.ne.jp/~lovenet/に書いた「金銭という生きる貯金」の以下のくだりなど。
http://firstdoor.jugem.jp/?eid=136
>その人が喜べばあなたも嬉しい、その人が悲しめばあなたも悲しい、

他にもまだまだありますがこのへんにしておきます。


こうして、過去に似たものを書いていたということを引き合いに言い出したらキリがない。
しかし、今回件の方は、私の記事のたった数日後に「私の文とほぼ同じ表現」であることには間違いがない。
かの方が普段当ブログを読みに来ているのは、当ブログで偽神示を騙る人々を話題にしていた時期に、
かの方は横入り記事を上げてきたという点からも確信をしています。

こうしたことを考えると、1月に似たものを書いていたというのすらもウチを読んでいた後書かれたものと疑わざる負えない位です。
当ブログはランキングで一昨年の時点からトップ10入りをしてきていますから、
人目には当然多く触れているわけですからね。

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ご意見に対しここで返答します

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 どうやら頂いた内容からしてあの方の信者さんか何かのようですが、
ルールで決めてあります通り、思い違いをされていたりスジが通っていない内容なので公開にはしませんが、
(思い違いやスジの通ってないものは大勢の人たちが勘違いしてしまいますから。)
お返事だけはしたいと思いますし、いい機会ですので過去に個人日記サイトで記した内容も合わせてここにUPします。


 >駄々っ子のわがままな弁解にしか映りません。
上は引用しておきますが、
大体ですね、あの人の言い訳はなんですか、これは超能力だった。 とか。
なんですかそれ。
冷静にみつめればあの方の言い分こそめちゃめちゃなんですが。
あの方にこそ言ってあげてください。

私の記事の数日後に「ほぼ同じ文」が出てきた。
これ曲げようもない事実ですからね。



この件に興味のない方はここで読み終えて頂いて構いません。
興味のある方は更に下に続きを書きましたのでお目通しを。

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 傾向が似てしまうのは仕方がない?
わかってないんですね。
パクラーというのは、人様のまるきりのオリジナルをパクル大胆な人は滅多にいません。
どことなく一般的に浸透してそうなものとか、一般論に聞こえなくもないもの、
そうした中でたまたま似てしまっても、一般的な概念でありそうなものだからと偶然で片付けられそうと思えそうなもの、
そうしたものが主に狙われやすいんです。
(でもそうした中でもカッコつけれそうな響きのいいものが狙われやすい。 なぜか?人様のモノでメッキを張りたい、人前でカッコつけたいからパクル。 その心情の表れだからです。)
たとえば今回なら、
「人の幸福を自身のことごとく喜び、人の苦を自身のことごとく涙すること。」
コレ、道徳としてなら当然アリな内容ですね?
人の道として当然ありですし、これが肝心ですが、
勘違いをしているようですけれども、
こうした概念の中身をオリジナルだと言い張っているわけではないんですよ。

人様のブログなりでみかけたこうしたものを、一般的な概念としてアリと受け止めれそうだからといって、
拝借する、それはパクリでしょうが。
そのパクル人は、「その時」、それを他で読んでいなければ書けていなかったのですからね。


それとですね、大きな勘違いをされていますが、
私はとあるランキングでは「スピ」と銘打ったカテに参加をしてはいますが、
私自身は自分の書いてきているものをスピと思っていませんし、
アンチスピですらあるんです。 ですからスピと銘打ってあるカテにはアンチのつもりで参加しています。
このことは当ブログでどこかの記事でのコメントに事実そう返事をしています。
そう、精神世界として参加はしていますが、スピのつもりはありません。
何を言うかと思うでしょうけど、米さんの思い込みなんですよ。
私は現代スピが流行りだす遥か以前からオリジナルに文章を書き始めているんです。
文章自体は遡ること16年前からです。 (きっかけである「ことはじめ」や他の修行はもっと以前からですが。)
その後の2005年頃あたりから世間では一躍スピなるものが流行り出しましたが、そんなものは私にはどうでもいいことです。
しかし、私が古くから書いてきたものはいまやネット時代の弊害もあり、現代スピにいくつも勝手に取り込まれていっています。
私がこれまでどれだけ盗作をされてきているのかあなたは知らないんです。
ネットでたまたまみかけた、まだランキングあたりに参加してるような、くすぶっているスピオタクくらいに思い込んでいるんでしょうから、
当然現代スピの土台となってきたものを幾つも書いてきているのがこのブログの管理人だなどと信じられないことなんでしょうね。

16年前、それ以前からスピと呼ばれていそうなものはマイナーながらもおそらくあったのでしょうね。
しかし私には関係がないんです。
米さんはおそらく文面からして思い込みされていますが、
ちまたのスピ本など私は読んでいません。
スピを学ぶ過程で一度は学んでいるものだろうとか勝手に決めつけていますがね、
私はスピなるものを学んできたつもりはありませんし、スピ本を読んで学んだつもりになってるわけでもありません。
勘違いされないでください。
私が精神世界モノで遠い過去に読んだことのあるのは、生き様が書かれている自叙伝や半生記や体験記、
こうしたものです。(20歳の頃に天眼通獲得のための本だけは読んでいますが。)
2005年以降を私は現代スピと呼んでいますが、たしかにそれ以降はスピ本として売られているものが急増しているのは知っていますし、
2005年以前は書籍でもそうですし、こうしたネット上のサイトやブログですら、
スピリチュアル系のものなど滅多に聞くことはなかったんですよ。
今でこそとあるTVの影響で、オーラだの過去世だのが一般に浸透し、スピブームなるものを迎えてはいますが、
以前はこうしたもののブログなりは滅多になかったんです。(特に2000年以前は。)
それはなぜか?、以前はこうしたものに関わる人はかなりの少数であり、だからこそ異端児でしかないから。
かつ、これ重要ですが、世間に過去世がどうだのあなたのオーラがどうだのと人前で言う人は気味悪がられる位だったのを今の人達はすっかり忘れています。
なのにですよ? この私がスピを学んできた?まるで既存のスピ本でも読みあさって学んできたみたいに聞こえますね?
(こうしたあたりからして米さんの思い違いですし、スジ違いというもの。)

私は瞑想と断食と、日常の生活そのものすべて、「生き方そのものを修行にしてきたんです。」
生きていく日常で普段できる、考えうる限りの道徳や善行を自分に日々課して生きてきたんです。
ある時を境に自他滅却を目指し、人々に些細な事であろうと、生きる瞬間を奉仕する生き方を選ぶよう努めてきたんです。
それはここでは詳しくは触れませんが、私は合一を目指しているからです。
16年前の文章を書き始める頃から今もずっとです。 そのおおまかな内容はhttp://firstdoor.jugem.jp/?eid=252  (そうして段階としては浅いながらも幾ばくかでも手が届いたのが見性。)
その上で書いてきているものなんです。 
(自分で普段の力量以上のものが書けるのが見性時であり、私の年に数日あるかないかの見性時にこそ普段以上の力量のものが書けるのです。
その見性の状態に戻りやすい、後押しをしてくれるのが断食なんです。 断食そのものが目的ではないんです。)
本や人から教わって文章を書いてきている人たちと同じにしないでください。
私が自分で掴んだ真理を文章にしているんです。
浅いながらも見性に届いたと実感していますし、その上で自分の文章を書いてきているんです。
私も確かに今は引用をすることはありますよ、でもそれはわかりやすいようにするためにそうし、
引用するなら出典元を明かしています。(主な引用のそのほとんどはあの、○○○○の自叙伝なわけですが。)

米さん、実はですね、あなたの思い込みとほとんど同じように思い込んでいたから以前にメールが来たことがあるんですよ、
ここにそれを載せましょう、そしてその時の私の返答も。
******************************

まずは2007/1/4の私の個人日記サイトから。

皆様からいただくメールでは、応援、批判、その他に、質問もぜひお送りください。
今の私は思う所がありすぎて書ききれそうにないんです。
ですのでぜひなんでも質問してください。


ですが、思う所、今日は少しばかりここに綴ります。

なぜこれまで、盗作されていたのを知りながら放ってきたのか、きっとそんな疑問を抱かれておられる方もいるかもしれませんね、

放ってきたのではないんです。 これまで日記でも、幾度となく盗作に気づいた事を綴り、
もうやめてくれるようにと懇願をしてきた。 それも、許しているからもうしないで欲しいと。
盗作をされている側でありながらなぜそんなにもおとなしくしていたのか?
それは、私が実証主義を貫いてきたから。
「分け与え分かち合い、 許しあい愛し合え」
これは私が自分の原稿内に綴った言葉です。
もし、私が人を許す人間に成れないのなら、その私も、何事においても人から許されない人間でしかない。
だから穏やかに訴え、許してきたのです。
ですが、これ以上野放しにするわけにはいきません。
私は、分け与える人間になりたい。 そういう人間になりたい。
でも、それとこれとは別なんです。
盗作とは盗みなんですよ。
これは分け与えるのではなく奪われているんです。
これまで私はずっと彼に奪われ続け、これだけの彼の盗作の数が揃った今、
今になって、ようやくですが、気づいた事がありました。
こんなにも盗作をされてきて、そしてこの先もされ続けるなら、
10年以上をかけて費やしてきている私のこの原稿は、
出版社の門を叩き、世に出そうとする時、
逆に彼のまがい物とされ、世に送り出す事が難しくなってしまう。
それを私は遅かれながらも気づいたのです。
私は、だから、彼のこれまでの盗作を許してはいますが、
これ以上させるわけにはいかない。
そして、現状、私の原稿を書籍として世に送り出すのは盗作をされなかった場合と比べて難しい。
なら、私は、世にこれらの事実は認知してもらう必要があるのです。
ただその為なんです、私が今こうして盗作されてきた事を公言をするのは。

「悪貨は良貨を駆逐する」と言いますね、
決して私が立派な良貨だなどとは言いません、ですが、盗作はメッキであり、決して良貨ではありません。
これまで、許しているからもう二度とはしないでほしいなどと日記で綴るばかりだったよい鴨が、
今では盗作されていた事を騒ぎたてはじめ、彼は今驚いている事でしょう。
ですから、彼はあらゆる手段で言い逃れをするかもしれません。

一旦味をしめた事は、その人の悪癖となりやすく、習慣化してしまう。
あらゆる犯罪の再犯率の高さはこれにあるのだと考えています。
彼は、盗作の味をしめた。
だから繰り返す。
こうして、私が気づけた範囲で盗作された箇所を指摘してはきましたが、
私が確認をしていないだけで、おそらく他にも沢山の盗作箇所がこれからも露わとなってゆく事でしょう。

鏡の法則にしても、波長の法則にしても、太陽と北風で喩えた話にしても、
人は愛なしでは生きてゆけないと書いた日記も、国の持つカルマも、
子が親を選んで生まれてきたという箇所すらも、
それはありとあらゆるものが、私の書いたものの中から彼は盗作をしてきた。
彼の人前で唱えているもののベースは、私の書いたものの中から生まれたもの。
彼は、これらの中のモノは世間でも指す所の一般的な見解もあるのだから違うとでも言い張るでしょうか?
私の文からそっくりそのままの形で借用してるものすらいくつもありますが。




無論、私も本を読む事はあります、ですが、その人物の半生や体験記を描いたものが主体であり、
(笹目氏や内垣氏、シャーリマクレーンの体験記、パラマハンサヨガナンダの自叙伝といった。)
原稿書きの参考になりそうなデータものは避けてきました。
それであっても参考にしたものは、原稿の巻末に参照にした書籍をきちんと明示をしてきています。
私は、たとえどれだけ月日がかかろうと、因果の法則を自分で思索考察をし、自ら実証体験をしてゆきながら書いてきているのです。
だから私の原稿や下書きは、くまなく読んで頂ければ理解して頂けると思いますが、
書いてる著者が100%理解しているものを、噛み砕くように、できうる限り、
読んで理解をしやすいようにといった書き表し方をしているのに気づかれるはずです。

私は、因果、カルマを、ただ漠然とカルマというものがありますなどと説明にもなっていない書き方はしません。
因果とはカルマとはなんなのか、あらゆる限りできうる限りの比喩を駆使して書き表そうとしています。
それが本当なのかどうなのかは、ぜひ今のうちに私の書いた原稿を読まれてあなた自身で確かめてみてください。

> 鏡の法則にしても、波長の法則にしても、太陽と北風で喩えた話にしても、
> 人は愛なしでは生きてゆけないと書いた日記も、国の持つカルマも、
> 子が親を選んで生まれてきたという箇所すらも、
> それはありとあらゆるものが、私の書いたものの中から彼は盗作をしてきた。
> 彼の人前で唱えているもののベースは、私の書いたものの中から生まれたもの。
> 彼は、これらの中のモノは世間でも指す所の一般的な見解もあるのだから違うとでも言い張るでしょうか?
> 私の文からそっくりそのままの形で借用してるものすらいくつもありますが。

日記の中のこの部分について注釈しておきますが、
これら多数をパクっている方は同一人物です。
これだけに留まらず他にも数多くパクっている方です。
この方は今ではとても有名になられました。


********************************

2007/1/8

 最近はぼちぼちとお手紙を頂いたり、
またある方はご自分のブログでこの件に触れたりされる方もおられ、
徐々にではありますが世間にてこの件が認知されつつあります。
(ブログを書かれた方、お手紙待ってますよ)

さて今日は、頂いたお手紙の中でも、
私が触れたかった部分を指摘されてるメールを頂戴しましたので引用し、
その指摘に対する見解を述べておこうと思います。



> 波長の法則、カルマ、子が親を選んで生まれてくるという話は、
> 昔からあるスピリチュアルな本でずっと語られてきましたよね。
> ですので、最近の霊能者が言ってる事も、すでに心霊哲学者の間では常識のようです。
> ひとつの真実、真理を、昔から色んな人が語っているのだから、内容としては同じ事を言ってるのは仕方なくないでしょうか?


仰りたい意味はこれまで十分に理解をしています。
彼はまさにあなたが言われるそこをついてきたのですよ。
カルマという概念、これはいにしえからあります。
もちろんです。
ですが、彼は、あなたが言われるように、
一般的な概念だろうと踏めるものを狙い撃ちした形で盗作をしているのです。

> 昔からあるスピリチュアルな本でずっと語られてきましたよね。

しかしこの部分はどうでしょうね?
スピリチュアルと呼ばれる分野の中で提唱をされているものが、
一体どの範囲にまで及ぶのかは私は知りませんが、
波長の法則といったものは、心霊哲学者がうんぬんするというより、
対人間間における科学のような分野こそ相応しくはありませんか?
これらのように、彼の盗作は、一見、
スピリチュアルや心霊哲学者のカテゴリーに納めてしまうには無理のあるものもかなりあるようです。


> ですので、最近の霊能者が言ってる事も、すでに心霊哲学者の間では常識のようです。
この、常識のようです、という文もかなり不透明に感じます。

> 波長の法則、カルマ、子が親を選んで生まれてくるという話は、
> 昔からあるスピリチュアルな本でずっと語られてきましたよね。

この部分について私の思うところを書かせて頂きますが、
私はそれら、世で言う所の「スピリチュアル」と呼ばれているものを読んだ事はありません。
ですのでその断定には賛同できかねます。
私が主に読むのは半生や体験記が主体ですので、それらデータものは避けてきています。
ですからそれらをスピリチュアルなのだと言われても理解ができないのです。


> ひとつの真実、真理を、昔から色んな人が語っているのだから、内容としては同じ事を言ってるのは仕方なくないでしょうか?

突き進めて考察思索してゆき、同じものに行き着いた、そういった見方をされたいのもよくわかります、
ですが、鏡の話、波長の話、親を選んで生まれてきたという話、
人は愛なしでは生きてゆけないや、マクロなる因果や、その他さまざまなもの、
そしてこれからも沢山露見してゆくであろう彼の数々の盗作箇所、
贔屓目に偶然と片付けたとしても、あまりにもその数は多すぎませんか?


> 昔からあるスピリチュアルな本でずっと語られてきましたよね。
彼がもしいくらこれらを盾にしようとも、その数はあまりに多すぎます。
これらすべてが偶然の一致なのだというのはもはや天文学的な確立としか言いようがありません。
そしてそれら天文学的な確立の偶然がはたして起こりえるものでしょうか?
否、彼は、世で言う一般的な見解にみえなくもないものを主体に、
そして時には私が綴った言葉そのままに使っています。
これを確信犯と言うのです。
それは、彼には、

> 昔からあるスピリチュアルな本でずっと語られてきましたよね。

心の奥底にこういった詭弁を用意しているからなのです。
しかしそれも、あまりに一致するものが多くなればなるほど、
実際は偶然似てしまったのではなく、
私のものを読んだ上で盗作をしていたのだと白状をしている形になってしまうのを彼は忘れている。
彼は私が盗作を暴露などするわけがないとこれまで安心をしてきた。
彼がそう考えたであろう事は容易に推察できます、私は、許しているからもうやらないで欲しいなどと、
生ぬるい事ばかりを日記に書き綴り、まさか怯えて抵抗もできないままのような犬が、
突然噛み付いてくるなど想像できたでしょうか?


これだけの数の一致はなんだと思います?
それは彼の盗作だからです。
そして、それら彼がした盗作箇所は、
私が気づかなかったものすらもが、これからも沢山露見をしてゆくでしょうね。
なぜなら彼は、私が噛み付かずおとなしくしているものだと思い込んでいたから。

ここで皆さんに考えてみて頂きたい事があります、
なぜ彼は、最初に盗作した一連のものを「愛」を題材にした書籍に盛り込んだのか。
そして次になぜ育児書を書くときに盗作箇所を盛り込んでいったのか。
前者は彼が愛という分野をちょうどその時書いていたからでしょう。
では育児書は?
私は、自分の原稿を書き進めながらも、育児に通じるものも幾つかの箇所で書き綴ってきたのを皆さんは覚えているでしょうか。
九章では、 【 正見による人との接し方 】を書きました。(育児に通じる箇所はここだけではありませんが。)
ぜひ今一度お読みになられてみてください。
そして、盗作をしたその人の該当書籍がお分かりになるなら比較しながら読んでみてほしいのです。
彼のその書籍は、私の書いているものをベースにしている箇所がふんだんにあるはずです。
彼はこうしてこれまで、私のサイトを参考書がわりにしてきているのです。
彼は、私の書いているものをベースにしてきた、だから愛、そして育児と、
それらの書籍の順序は私の書いてきたもの通りの順番なのです。
(これは彼のほかの書籍にも言えるはずです。私が古くに書いたものは彼も古くの書籍、
私の書いた比較的新しいものは彼の書籍でも比較的新しい書籍に盛り込まれているはずです。 
それらはこれから露見もしてゆく彼の盗作箇所を見つめてゆけば自ずと判る事でしょう。)


こうして味をしめた彼は、私の書いたものに納まらず、ついには他の方の書籍ににまでその盗作は及ぶようになった。
それが現在の彼。



これを読まれている多くの皆様へ
彼の私が気づけなかった新たな盗作箇所を発見されましたならぜひお手紙をお送りください。
ある程度まとまった時点でそれらを公開してゆきますので。


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2007/1/10

 今日はある方への返事をこちらにて。



○○さんこんにちは、はじめまして、愛上王と申します。
ご意見頂きまして有難うございます。

今日返信を書きますのは、思い違いをされているようですので、
そのあたりをお話しておこうかと思います。


「誰が先に書いたか、誰が先に言ったか」
まずこのあたりにこだわられているようですが、
私は、盗作をした人がいるという一点に焦点を当てています。
つまりそもそも主旨が違います。

あなたが仰りたいのは、概念としては古くからあったろうから誰が今さら言おうが関係ない、
そう言いたいのでしょうね。

そういう視点で盗作の件に触れているのではありません。

盗作か否かを問題にしているのです。

例えば、イエスの放った言葉をそっくりそのまま自分の言葉のように人々に喧伝
してるものがいたとしましょう、これはあくまで仮にですが。
聴衆に混じりイエスの言葉を聴き、イエスのいない場所に出かけては、
そっくりそのままをさも自分の思想の如く人々に語ったとしたなら、
それは誰の目から見ても盗作でしょう?

私の書いた原稿ですが、ここでも仮に、
○○さんが数年かけて書き上げたとしましょう、
サイト読者がそれをちょこちょこと盗作し、
さも自分の考えのように喧伝をしていたなら、
それは盗作でしょう?
何年も月日をかけて書き上げてきたのにも関わらず、
さも自分のもののように振舞って使われる方がいたなら、
気分はよくないのではありませんか?


サイト上ではすでにお答えしましたが、
今一度ここで。
彼は、一般的な概念に見えなくもなさそうなものを主体に選んで盗作をされています。
「人は愛なしでは生きてゆけない」
突き詰めて考察すれば、これらは一般的な概念ではあろうと思います、
太陽と北風を引用し、そこで私が喩えを織り交ぜながら話した部分もです。
こういった、なんだ、そんな事は一般概念じゃないか、そう受け取れそうなものを主体に彼は盗作をしているんです。
そこが彼の狡猾な所なのですが。
しかしよく考えれば、それら一般的な概念にみえそうなものであっても、
同じ人物の書いたものの中からいくつもあれもこれもと使っているなら、
それら一般的な概念だろうという建前を狡猾に利用した「盗作」ではないですか。
違いますか?
盗作者というのはそういった自分に都合よく受け取れる建前はちゃんと用意してるものなんですよ。
それらは自己欺瞞なんですがね。
一般的な概念にみえなくもないだろう、だから盗作だと私が決め付けてかかるわけにもいくまい。
そういった考えが彼にあっての事なんですよ、これらは。
しかし彼は、ほどほどにしておく事を知らなかった。
なにしろうまくいってしまったんですから。
だから彼はそれ以降も続けたのでしょう。
そしてそれこそが致命的なミスなのですが。

私の書いた中でも古くのものは彼も古くの本に、
私の書いた中でも比較的新しいものは、彼も比較的新しい本に書かれているはずですよ。
たとえどれだけそれらが世間で言う所のスピリチュアルと呼ばれるものに相応しい内容で、
自分のものの振りをしようとも、こういった事にまで彼は考えが及んでいなかった。
だから彼は延々と盗作を続けてきたのです。


>昔からあるスピリチュアルな本でずっと語られてきましたよね。
この部分、あまりに曖昧すぎますよ。
私の書いたもののうちの一部がそれらの世界で言われる中にも以前からあったと言われたいのでしょうけど、
これはせいぜいがカルマの法則くらいしか思い当たりません。
私の書いてきたものはあなたからみれば、
そういったスピリチュアルなる世界のもののように映ってみえる、
要はそういうことでしょう?
あなたの主観でしかないのに、
私の書いたものをすでにそれらの世界にあったかのような断定はよくないのではありませんか?
もちろん、自分自身でこれまで書いてきたものの中にはそれら世間でいうスピリチュアルなる世界の枠の中に収めてもおかしくないように
見えるものあるでしょう、ですがすべてをそうだときめつけておられるからそういった主観で判断をされてしまう。

>ですので、最近の霊能者が言ってる事も、すでに心霊哲学者の間では常識のようです。
これも同じですね、主観的希望的観測で、常識として扱われている、と、なんら根拠なく思い込まれておられます。
こういう思い込みをされると、私がこれまで書いてきた、これからも書いてゆく、原稿や下書きはみな、「常識のようです」の一言で
なんでもかんでも扱われてしまうことになってしまう。


そもそも、○○さん、あなたは、私が、何かを読みふけりながら、
モドキ物でも書いているのだとでも思い込んでいませんか?
私は、内垣氏の半生や、笹目氏の半生、シャーリマクレーンの体験記、
ヨガナンダの自叙伝、こういった人生の物語は読みますよ、
あとはせいぜいスポルディングのあやしい体験記くらいですね。
ですがたとえば、シルバーバーチの本などは読みませんし、
バガバッドギーターも棚にありますが、まともに読んだ事がありません。
聖書もろくに知りません。 きまぐれで数ページ読んでみたことがある程度ですし、
私にすれば、どれもああいったものは読むのがおっくうでめんどくさいのです。
これらは私にとって、噛み砕くようにできうる限りわかりやすく書かれているとは思えないのが一因していますが、
(もうひとつ肝心な理由があります、後で書きます)
どちらかといえば私は仏教徒と思ってはいますが、
仏典すらも隅々読んではきていません。
例えば、仏教では四諦やら八正道があるといいますが、
私はそれらがどういうものなのかをお恥ずかしい話ですが実は知りません。
ただ満足に言葉として知っていたのは正見くらいなもの。
その正見すらも、正しさの正確な基準がなんなのかいにしえから世では問われ続けており、
正確な答えをこれだと表明してきた人物はいないのだと聴いておりました。
○○さん、たとえばこれまで、正見の正確な真の基準を誰かの本や人づてで聴いた事がありますか?
あるはずがない。 誰もその答えをこれだと明示してこれなかった未踏の難関だからこそ
正見の真の基準が世に書籍等で浸透してこなかった。
私の書いた正見の答えは、私が断食と瞑想とによって得たものなんです。
これは私の書いた原稿の他の部分にも言える事なんです。
私が何かをやむなく参照にした場合は、それらの書籍をきちんと明示してきています。
もっともそれらは、不思議な事ですが、たいていはその原稿を書き上げたあと、
しばらくした頃に引用や史実として付け加えるのに相応しいものと突然出会っての事なのですが。
まあこのあたりの事は、私の原稿にばかり目をうばわれるのではなく、
原稿が書き進んできたそれまでの間の様子が綴られている私の日記を「くまなく」お読み頂けないと分からない事ではありますが。




私がなぜ「盗作」に視点をあて、それにこだわるのか、
そのあたりをお話しておきましょう。
頂いたメールを読む限り、少なくとも私の原稿のフル版だけは最低限お読みになられていると思います。
私は、この原稿仕事は、どこそこの出版社に依頼を受けてとかいった、ごく普通の取り組みではじめたのではありません。
もしそうだったならどれほど気が楽だった事か。
シルバーバーチだろうがなんだろうが、あれもこれもと読むのにきっとためらいは何もなかったでしょうね。
私がこの仕事に進む理由は原稿の巻末にあります「ことはじめ」を今一度お読みになられてみてください。
私は自分の身におきた奇病を癒してもらうが為に誓約として誓い、
この仕事を始めたのです。
途中で投げるわけにはいきません。
私がこの仕事に進むことを誓った相手は、姿かたちも観る事のできない神ではありますが、
だからこそ、私が進めてゆくこれらの作業は引け目があってはならないものなんです。
神に誓った作業の中身が、他の人の書いたものを読んで書き写すようなモドキであってはならない。
これが私が他の方のデータになりそうなものを避けている理由です。
私が書き上げたものを世に出すのは神に誓った事を守る事でもあるんです。
なのに、私の書いたものを盗作する方が出てくると、
しまいには逆に彼のまがい物扱いをされてしまうおそれがある。
すると結果、彼のまがい物と思われたなら私の原稿は誓いを果たせなくなりかねません。
一切はこれらを危惧しての事なんです。
私は彼の盗作は許していると書いてきたではないですか、
ですがこれ以上させるわけにいきませんし、
まがい物扱いをされる危険性は払拭もせねばなりません。
ですからこの事を世に認知してもらうが為に彼が盗作であることを表明しているのです。

私にとってこの作業は神聖なものであり、無我無心無執着であるべきなのだという事は百も承知しています。
だから精一杯頑張ってみて、その上で私の原稿を結果として世に送る事ができなかったなら、
誓った相手、神も、私を咎めたりはしないとは思いますし、
だからこそ私は結果にはとらわれる必要はなく、ただ進めてゆけばよい。
それらの事も十分に承知しています。

しかし私はその上で、「自分のできる最善を行わなければならない。」
違いますか?


****************************

さて、米さん、あなたは私に言う。
あなたの原点に戻れと。
偽物スピから被害に遭う方を救う?それを原点と私に言う。
しかし勝手な思い込みをされていますが、それは私の原点ではありません。
私の「ことはじめ」を知らないでそうやって勝手に思い込んでいますし、
偽スピの被害から人々を守ろうと決意した経緯や理由は別にあり、
それらの理由もこのブログのどこかに何度か書いていますが、
私の原点は別にあり、こちらブログにも載せていますが、「ことはじめ」に記してあります。

噛み付く相手?
勘違いにもほどがあります。
米さん、あなたはあちこちのランキングに参加している中でどれだけのインチキがいるか理解していますか? 把握できていますか?
私は他にもインチキやパクリ、虚言や妄想でチャネリングしてるだの神と会話してるだのと言っている人たちや、
遠隔ヒーリングだのと謳っている人らの真贋のおおよその区別はできています。
しかし、あまりに数が多すぎるのと、これだという目立つ徴候を微妙にボカしている人たちの様子は残念ながらそのほとんどを放置しているんです。
今やブロガーの4割がパクリだと言われていますが、こと精神世界系統はその中でも一番多い。
何しろ霊感商法なりスピグッズの販売、あやしいヒーリングと、なんでもかんでも鵜呑みにしてしまいがちなオカルトを信じてしまうようなカモが多くいるジャンル。
こんな偽物らにとってこんなにもおいしいジャンルが他にありますか?
なのに、どれだけインチキがいるのかわかってないからそういうことを言うのでしょうね。
(こういうことで意見をしてくるのなら、一度パクラーやインチキ偽物、こうしたものを徹底して研究してからものを言って頂きたいものですね。
今や大学の卒論ですら山ほどパクリが横行しているほどなのですよ。)


それとですね、パクリ癖のある人達のクセってあるんですが、(これは妄想や創作神示を騙りたがる方にもあてはまります。)
これの見分け方を一つだけここで明かしましょうか。
それは、無理してでもほぼ毎日記事を書く人。
これはですね、よおく緻密に観察をしていますと、どうやら、毎日のように記事を書いていてネタが湧いてこないようになりだした人が主にやるようなんですよ。
(毎日記事でない人ももちろんやる人はいますが。)
それはアルク氏の盗作神示での記事や、盗作した神示記事の神様の名前のすげ替え使い回しなど、
無理して日々毎日書こうとする方がヨソの神示なりブログなりを読みあさって書くようになる。(大量盗作がバレ、そうした「毎日記事」を書けなくなった彼は退散をしましたが。)
実際私も彼にはされてきていますしね。
I氏もほぼ毎日書こうとし、行き詰まってあちこちからパクっている。
それを人々はつぎはぎの寄せ集めという意味で、彼の文を「パッチーワーク」と呼んでいます。
無理してほぼ毎日記事を書きたがる人というのはですね、ランキングで上位を維持しやすいと考える人もおるようですし、
I氏のように、ラン○○グでナンバーワンだと言い張れるように、それを謳い文句にしやすいように、
日々記事を書きたがる人もいると。
実際、そのせいで彼の文章は大勢の検証者らからパッチワークと見ぬかれているではないですか。

で、今回かの方は2日に一度か時にほぼ毎日書かれていますが、
なんとか論だとか、既に既存に存在するものの解説をしたがる方って、
何かをヨソを読んでモノを書くのに抵抗のない人なわけですからなおさらです。

それと、米さん、あなた、私が示したこの部分、
> 内容がかぶっていたり、ひねって書いているものが他にもあるし、
> なぜそれらが私のものより日付が後なのか。
これ、どうやらどれだか気づいていないようですね。
ネタ探しで読みに来、うちを読んだ上で、「微妙にパクりにはならない」、
「ひねって」書いたものが彼はあるようなんですがね。
どれだか区別ついておらないようですね。

これはネタ探しをしにきた人の特有なやりくちなんですがね。
そうそう、ぜひ一度、「浄化」やら「ゴミ」やらで「当ブログの検索窓から」検索してみるといいですよ。

パクル人っていうのはですね、堂々とあからさまなパクリを断行する場合、
一般的な概念に見えなくもなさそうなものを主体に選んで盗作をする人が多いんですよ。
もし人々に感づかれても、中身は、なんだ、そんな事は一般概念じゃないかと受けとめてもらえそうなものを主体に。
そこがまたパクラーの狡猾な所なわけですが。

しかしまた、そうは受け止めてもらえそうにない内容をパクろうとする場合や、人々に気づかれやすいものを拝借する場合、
「人の書いたものをネタにしつつも」、中身を大幅に「ひねって」書かれる人もいるんですよ。

話が脱線しましてパワーストーンの真実 http://firstdoor.jugem.jp/?eid=437
米さん、この記事、一度読んでみてくださいな。
特にほぼ下書きのまんまでそのまま載せてしまった、後々の清書時のことを考えて、部分的に閉じ括弧で注釈が残ったまんまの前半の部分を。




それに、これはよくよく冷静になってみてほしいのですが、
彼の言うなんとか論とゴミ屋敷とどう関係があるのか?
ネタをゴミ屋敷一本で記事を書くのは本来無謀なことではないのか?
ネットでブログを読むようなごくごく通常な人の中にどれだけ自分の家をゴミ屋敷にしてる人がいるのか?
まあ結び方は別にもっていってるのはわかりますがね。
記事ネタ消化で無理に書いたようにしか見えないんですがね。

ほぼ同じ文と、ひねり球、こうして急遽ここにきて複数出てきているからなおさら確信したんですが。
(記事タイトルからして妙に感じたからチェックしにいったのはこういうことです。)

あの方は、うちにネタ探しにきています。
もうさすがに以降はやらないでしょうけどね。





パクリについて少しまとめておきます

JUGEMテーマ:スピリチュアル
ブログパーツ

 パクリについて少しまとめておきます

 今回の記事は経緯や顛末を知らない方は読んでもよくわからないと思いますが、
一応ブログに残しておこうと思い、記事にしておきます。


 いい加減ここらで終わらせておこうと考えていたわけですが、
実に巧妙に見えるやり方をされたようなので黙っておけません。

今回、控えめに? はじめは「一つだけ」明かしたわけです。
「人の幸福を自身のことごとく喜び、人の苦を自身のことごとく涙すること。」
これとほぼ同じ文が私の記事の数日後にとある方の記事で出てきたと。

騒ぎになりすぎないよう、控えめにここまでしか書かなかったわけですが。
まず私の記事、 2012.04.26に記しました、「話が脱線しましてパワーストーンの真実」http://firstdoor.jugem.jp/?eid=437
この記事の前半部分を読まれた後、
かの方の今回そっくりな記事の、「その一つ前の記事」が分かる方は読まれてみてください。
これは焼き直しです。
ゴミだの浄化だのの部分から「焼き直し」に入られたのがよく分かると思います。
その次の記事はほぼ同じ文と。
だから私は確信してますよ。

話を戻しますが、今回、実に巧妙に見えるやり方に走られたようですので、
焼き直しでネタを探しに来ていたこうした様子も黙っていてあげる必要もないと判断したわけです。

何が今回のは「超能力だった」ですかね? あの方はもしやバカにしてますかね?

「人の幸福を自身のことごとく喜び、人の苦を自身のことごとく涙すること。」
こうした概念は私は遥か以前からも書いてきています。
2002年、http://www.osk.3web.ne.jp/~lovenet/ にて、「金銭という生きる貯金」というタイトルで
>その人が喜べばあなたも嬉しい、その人が悲しめばあなたも悲しい、
このように記しています。
こちらのブログにも挙げてありますが、 アドレスは以下。
http://firstdoor.jugem.jp/?eid=136

「上を向いて歩こう」を書いていた期間は1996年6月から2003年の6月頃までで、
(1996年より運営していました、最老舗ネットアイドルポータルサイト、Cute Girls Japan にて数十万人がリアルタイムで当時読んでいたものです。
幾つかの出版社にも2002年と2003年に原稿の持ち込みもしています。 よって2003年までに書き上げた証拠は豊富にあります。)

この記事を書いたのは2002年ですから、今から10年前に既に私はこうした概念を書いていたのに、
なぜあの方が私が既に書いてきている文を予知して書いたということになってしまうのか?
これは超能力だった。 とか、バカにするのもいい加減にして欲しいものですね。
というかですね、今回事実私の書いた文とほぼ同じ文が数日後に出てきている。
これは曲げようもない事実。
多くの人たちは超能力うんぬんとかでボカされて、この事実からはぐらかされています。
もしこの一件だけだったなら、私も稀にみる偶然として片付けていたかもしれません。
ですがあの方の一つ前のあの記事はなんでしょう?
私の記事、「話が脱線しましてパワーストーンの真実」を焼き直しして書かれているようにしか見えないわけですが。
まあこのあたりのことは、興味のある方だけ読んでもらえればいいとし、一つ前の記事でさわりだけ書いたわけですが。


で、今回何が「巧妙なやり方」と言うかといえば、
こうしたことはシラを切ったまま、自分はなんたら神の分け御霊だとか人に言われているだのと、
どうでもいい確認のしようのないことで自分に箔をつけ、人々の信頼を勝ち取ろうとされていること。
「まさかこうしたタイミングでそういう行動にでるんですねぇ。」
(こんなつまらんマネさえしなければもう終わりにしていたんですがね。)

これでは以前のアルク氏のやり方と同じではないですか。
さも自分の後ろに神々が控えているかのように振る舞い、人々に対して「後光効果」を狙っている。
さも神々しい面を演出しては、焦点の当たっているパクや焼き直しから人々の意識を遠ざけようと。
(ハロー効果とも言う。)
http://note.masm.jp/%A5%CF%A5%ED%A1%BC%B8%FA%B2%CC/
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0ss/116066200000/


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まあ正直ですね、ほんの出来心のつもりで少々パクる、少々ネタに困ったのでバレにくいよう焼き直しして拝借する、
こうした人達はゴマンといますし、これまで散々みてきましたよ。
少々では済まない人もいましたわ。

例えば私は今、ブログ村では「スピリチュアル・精神世界」というカテゴリーに参加していますが、
今現在のカテに移ってきてからも、ア氏や、シリウスからと吹いていたRK女史は複数をパクってくれましたし、
その様子は「一部は」ウチで記事にもしましたね。(パクラレてる被害者が私なんですから記事にもしますわ。)
つい最近だと「自由」についてですが、ある方の件でウチの記事が2CHで話題にあがれば、
本人が即当ブログにやってきては、すぐさまパクってくれた、M原。
(この時のパクられた様子は記事にしていますのでお暇なら読まれてみてください→http://firstdoor.jugem.jp/?eid=454

他には複数パクっていた「平杜カノン」女史。
(今のカテではまだ他にもいますが割愛します。)

一つ前に参加していたカテゴリーであります、「引き寄せの法則」では「Nしき氏。」他多数。
Nしき氏は引き寄せに関しては、私とは真逆の、行動をアテにしない、言わば願うだけという主流派であります、「宇宙におまかせ派」だったわけですが、
私は心、意思、その反映である行動と、
意思や行動を重視した、最近の流行の引き寄せ法則とは完全に系統の違う独自論派なわけですが、
(私の引き寄せ論は元が「上を向いて歩こう」から派生したもので、棚からぼた餅とは逆の、むしろ厳しい内容です。)
私が「意思」や「行動」を重視した記事を書いたら、 宇宙にお任せ一辺倒だったはずの彼は、
微妙に焼き直し、なんとうまいこと苦心されたようで、「意図」と表現してパクラれたと。
しかし意思も意図もこの場合は同じ意味合いですからね。
意思は何かに意識を向けるという意味で使って書いていたのは私の当時の記事を読めば分かることなんですから。
(この時の様子は→ http://firstdoor.jugem.jp/?eid=221 )



さらに一つ前の参加カテゴリーである「人生成功」ではオジャルスキー氏含め多数から。
この方は同じ表現とかモロパクリをするというよりもひねってごまかす焼き直しメインの方。

ざっと思い出した範囲でもこれだけいますが、
パクってくれた方はまだまだ沢山います。
私の書いてきた「上を向いて歩こう」をメールマガジンで有料で金儲けしながらパクっていた方もいます。
その方のメールマガジンのバックナンバーにはテーマのタイトルが載っていたわけですが、
私の記事タイトルと同じ物が複数発見されました。
そのことを日記サイトあたりで気づいたとほのめかしたら、
その方、バックナンバーの表題タイトルを全部消しましたw これって逃げですよねぇ? つまりこの方も確信犯と。

他には、パクったものをご自分の本に盛り込まれた方も何人かおられます。
が、こちらは被害者ですが、相手は世間的には大物ですので、悔しい思いはありますが名は伏せます。
この方は利己利他4分類を縮小し、3分類に焼きなおして書かれた方。
書籍全体のテーマは「上を向いて歩こう」全体のテーマにかぶせて書かれた方。
私はその方を「船」さんと呼んでいますが。


まあまだ他にもいるんですが、このへんにしておきますか。

あ、そうそう、この記事の一つ前の記事で、大量にパクってくれた方を文中では引き合いにしていますが、
その方はどなたなのか?
もしやすると興味のある方もおられるかもしれませんね?
しかしこの方は、今ではすっかり大物になってしまったようなので、
対峙するだけの体力が今の私にはナイです。
なので残念ながら名は出せそうにないですわ。
EEEEEEEEE そういうわけでありまして、
あれ?なんでしょう?どこか押し間違えたのかなぁ?
 E!
なぜか今一瞬ローマ字になってしまいましたね?
このキーボード、いかれてますかね?
ああまったく困ったものですねw 

今回色々と、以前にパクってくれた方らを一部列挙したわけですが、
ハデなパクり方をしてくれている人の場合はもちろんWEB魚拓に残してあったりします。

今日の記事はここまでで切り上げてもいいんですけど、
誰それにパクられてきた、それはこういう人達です、だけでは納得しない人も大勢いるでしょうし、
少しは「明確に名指しして盗作をバラしてあげましょうか」。
たまにはこの位しないと、手癖の悪い方たちのクスリになりませんしね。

一匹みつけたら三十匹
http://firstdoor.jugem.jp/?eid=237
  単語をすり替えて焼き直し↓
Wed, June 02, 2010 posted by kanon-moonsoul
「能力者」の定義
http://megalodon.jp/2010-0730-2322-01/ameblo.jp/kanon-moonsoul/entry-10551505623.html


続 一匹見つけたら三十匹  一番最初に気づいた時の様子を記した記事。
http://firstdoor.jugem.jp/?eid=240

Thu, July 29, 2010 posted by kanon-moonsoul
スピ系認知症急増の原因について思うこと…
http://megalodon.jp/2010-0730-2326-00/ameblo.jp/kanon-moonsoul/entry-10603908343.html
この彼女の記事では、ある方の造語である単語を焼きなおして使用しており、その様子からパクリをしている可能性大とし、↓
いくつか記事をさかのぼってチェックしたら出てきたのが「能力者の定義」記事。

他にもこまごまパクっている様子はありますが割愛します。




2010/4/14 モラルを説く平杜カノン。
http://megalodon.jp/2010-0730-2331-20/ameblo.jp/kanon-moonsoul/entry-10507902975.html
  ↑一部抜粋↓

> 普通の人が普通に考えても分かるモラル、ないしはその違反行為を、
> スピ系の言葉で脚色し自分や第三者を偽る事は、
> スピリチュアルを扱う人間として絶対にあってはならない事だと、私は肝に銘じています。

いやはや、とても立派ですね。
なので覚悟はおありだと思いますので、今回はパクリを全開で晒しました。


とまあ、今日は大雑把に、細かいパクや焼き直しなどは省いて一部だけ明かしましたが、
そんなこんながありまして、
当時こんな記事を書きました。
    ↓
今回はもう名指しします
http://firstdoor.jugem.jp/?eid=244

この時は名指しはしましたが、なぜ出禁なのか、
その理由、彼女が盗作さんだから出禁なのだとまでは明かしませんでしたが。

パクラーなどはですね、特にランキングなどにはザラにいますよ。
ウチばかりがヤラれているわけではありません。
記事のコメントでもたまにそうしたことを教えてくれるコメンターもいますし、
バレにくいようにと焼き直し専門の人もいます。

とーぜんそういう方はバレてもシラを切るわけですが。

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パクリ対策とお知らせ

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 パクリ対策とお知らせ

 最近、やむなくパクられた件をいくつか記事にしていますが、
本当は本来は他に書きたいものがいっぱいあるんですよ。
なのにこんなことでわずらわされ、これ以上させないようにと抑止策の一環として記事にもしてゆくと。
すると、本来書いてゆきたい記事を書く時間は奪われるわ、他にもやらねばならない作業は山積みだわで、
もう本当に迷惑極まりないわけです。
今日現在、当ブログはPCから読みにきますと、左に主なメニュー。 右に別サイトで古くから書いてきた「上を向いて歩こう」のメニュー。
そしてその右の更に下の方に、隅っこに追いやるように、「盗作されてきた件について」というメニューが置いてあります。
正直、パクられてきたとかいうのはできれば構いたくないです。
パクられさえしなければこんなメニューを誰が置きたがりますか?
なので人目に触れにくいよう、わざとああして隅に追いやるよう、ずずっと下の端っこにメニューを置いてあるわけですね。

そう、本当はこんなこと、書きたいわけがない。
さんざん頭を悩ませ続けてきた件なんですね。

これまでにパクられてきた部分というのはですね、
大抵の方は引用元を明記せず、パクってきては、うまく焼き直しをしたりして持論風にまとめあげているわけですが、
その自説かのように振る舞いたがるパクられるその内容というのは、人前で唱えるとどことなく「響きのいい」聞こえのいい、
人前でカッコつけれそうなもので、それでいて一般的な概念に聞こえなくもなさそうなもの。
かつ、スピや精神世界系統の先生かのように振る舞えそうなもの。
どうやらこうしたものに偏っているようです。

もちろん私自身は人前でカッコつけようとか考えて書いてきているわけではありません。
私がこうしたものを書くようになったきっかけは 「ことはじめ」に書いたとおりですからね。



さてさて、私はこの先、これまでに自分が書いてきました原稿や記事で、どういったものが今後もパクられやすいのか、
その傾向を把握していますから、おおよその見当はついています。
1例を挙げますと、「上を向いて歩こう」内の、【 より愛されるために 愛 】など。

さてさて、そこで考えました、今日から、暫くの間、小生の古くからの原稿であります、
「上を向いて歩こう」のそのほとんどを、またも非公開記事にしておきます。
なので今後は様子をみて、部分的に公開にしてゆこうと思います。

なんですけどもね?

2000年の年末に下書きを書き、2001年の正月に清書をしました、
私の初の、見性に到達した時に書いた原稿であります、
【 より愛されるために 愛 】をここに載せておきます。
今回「意味があって」載せはしますが、数日したらこの記事からも消す予定です。
(今日UPしますこの記事はぜひぜひよおく読んでおいてください。)


 【 より愛されるために 愛 】

 恋愛は一種の人間的な小さな積み重ねの訓練であって、最終的に研磨された時に完成し、
これに結びつくゆえに人間の愛と云うものは深い意味と高い価値を持っています。
遥か先のこの段階は「至上愛」であって一般が指す「恋愛」ではありません、
相応しい言葉が思い浮かびませんが、敢えて呼ぶとしたら博愛や大愛といったものかもしれません。
この一切すべての者を愛する者となる時に至上愛は完成するのですが、これに至るには段階があります。
愛する為には愛する者の欠点を自己の中にも内在する写し絵と捉えて許さねばなりませんね、
それではここで一つ簡単なテストをしてみましょう。
 あなたの愛する恋人が突然あなたの大嫌いな人の姿になってしまいました、顔も姿も行動や性格までもです。
さて正直に答えて下さい、今までどおり愛する事はできますか?
身体的特徴ばかりでなく性格や行動、言葉、
こういった一切が今たとえにした人物と寸分違わずになったとしたならばあなたは愛せるのか?
たとえどう変わり果てようとも愛しているともしあなたが答えるならば更にお聞きします、
あなたの愛する人が突然容姿や性格、その他全てが変わり果てても愛せると云うならばなぜその者にだけ執着して愛するのか?
この問いは多少無茶のある事ですが非常に大切な部分なんです、
姿がかわり果てたならば愛せないと答えるならばあなたは相手が年老いて醜くなれば今の愛を持続させる事は難しい、
姿がどう変わろうと愛せると答えるならばあなたは人間的心の段階としては高みにいると云えますが更にお聞きしたい、
今愛する者がどう変わろうとも愛するならば、その他大勢の姿形や性格も全く異なる別の人たちを今愛してる者と同じ様に愛さないのはなぜですか?
2000年も終わりに近づいた年の瀬にこの心のテストを自分で作成し、実際に私が自分でやってみました、
愛する者の姿形、行動や性格すべてが最もいとわしい者であると仮定して。
うーん 難しい・・・ 正直答えましょう、今の私にはまだ無理でした。
このテストをしてみてどんな姿形に変わろうとも私はそのいとわしい者の姿や全てを愛せると答えられる方もおられるかもしれませんね?
しかしそれは嘘になります、その答えは偽善なのです。
愛せると答えたら偽善? これではテストは無意味、問いにもならず答えもないのでしょうか?
どのような姿形や性格の者に成り果てても愛せるかという問いですのでここではわかりやすくもっとも自分が嫌いな者、
最もいとわしい者を私はひきあいにしたわけですが、この嫌いな人物をこのままで愛せるわけがありません。
ここに行き着くにはこれを成す為の土台が必要です、それは全てのいかなる者も愛する以前に、全てを許すという事。
これをもってして初めていかなる姿形であろうとも愛する事ができる。
ではいかにしたら全てを許せるようになるのでしょうか。
私たちのミクロなる個における通常の恋愛は、もっとマクロな人間の完成という視点からみつめた途上のものであり、
私たちの心の成長の度合いそのものは愛の大きさにほかなりません。
それは人間的相対的な偏った執着が含まれた、一部の者を愛するという成長段階から全ての一切が同一であると知り、
差異なく愛するというゴールに向かう迄の途中の形態、この途上の形態こそが私たちが住む世界における一般に指す「愛」。
この心の成長度合いともいえる愛の大きさは目で見て測れるものではありませんから説明が困難ではありますが話を続けましょう。
利己心が強く愛の小さな人もいれば愛の大きな人もいるように、愛とは実際に育つものなのですが、
愛の大きさがある程度強くなってゆきはじめると、人は許す気持ちそのものである寛容心が愛と共に一緒に大きく強くなってゆくのです、
寛容心とは愛ゆえのもの、愛の側面の一つだからです。
そして私たちは実はどんな人であれ、この自己の中にある愛、恋愛をも含む全ての愛を実は日々大きく育てようとしています。
これはエゴの強い人であれ犯罪者であろうと一切の例外なく全ての人がです。
これを読まれている読者の中には、私は日常で愛など求めてはいないと言われる方も中にはおられるかもしれません、
ですがそうやって否定する事すら愛を求める一つの形態なのです。
例えば誰かが著者である私を嫌いとしましょう、これすらもその人にとって愛で満たされたいゆえなのです。
(注、私に愛されたいというのではありません。)
あなたは悲しい時涙する、寂しさを知り、痛みをも知る、これこそ愛を求めてやまないしるしなんです。
こうやって誰もが必ず日々例外なく愛を求め続けているのです。
そう、私たちは実はこの肉体的本能や人間的執着が根底である恋愛以上のものを何よりももっとも求め続けて生きてきたのです、
その求めつづける姿は満たされるまで続く渇望。
「私たちは実は一切すべてから愛されたい。」これは誰もが全てにおいてです。
一切すべてから愛されたい、これをわかりやすく言葉や文章にする事は非常に困難なのですが、幾つかの例えをしてみたいと思います、
これは心で感じ取るものであって、言葉や文章といったもので言い尽くせるものではありません、
ですので書き進める例えを何度も何度も読み直して下さいますよう強くお願いをします。
 ある者が自分の欲する事をする、求める事を行う、これは愛されたいゆえになのです。
え? これではわからない? 確かにそうですね、では話を続けましょう。
ある者が恋人を欲しがる、それはその様に願い、その様に叶い、
その様に成り得た時の恋人との様々な生活が、「本来奥底で求めていたもの」を満たせると信じているからです。 
その私たちが本来奥底に求めているものとは絶対不変の愛、絶対幸福と言いかえても良いかもしれません。
この自己の絶対幸福状態である全てにおいて愛される事を望むゆえに私たちは日常で様々な差異や不幸までも自ら生み出しているのです。
さあ意味がわかりずらいですね、例えを続けましょう。
ここではあるやくざが居たとしましょうか、このやくざはお金を求める為にある時は自己に都合よく暴力をもってそれを為す、
女性を求める時、ある時は正攻法に口説き、またある時は暴力であるかもしれない、そしてある時は欺瞞によって。
またある時は権力を求める、他人と競争をし、ある時はたくらみ、人を蹴落とす。
全ての思考と行いが、「愛」されたいが為に人は顕す・・・ 奥底で求めているものを掴む為に。
そう、私たちは何よりも心から求めているものを掴むために見誤ってしまっている、
全てが実は代替え行為。 だからこそ実はいつまでも満たされないでいるのです。
恋人を求めるのも
友達を求めるのも
お金が欲しいのも
出世をしたいのも
尊敬をされたいのも
立派な家に住みたいのも
立派な会社に勤めたいのも
美しいくありたいのも
綺麗な服を着たいのも
愛を終らせ別の人を求めるのも
嫉妬をするのも
憎むのも
争うのも
これみなすべて奥底で求めていた不動なる絶対愛に満たされたいがために。

殺人犯であろうとやくざであろうと例えどんな人であっても、
奥底で求めていた絶対愛に満たされた時、一切の悪行は消える。
もう満たされずに盲目となって他の事に求める事をこの瞬間に終える。
善い事も悪行すらも、求める愛で満たされたいゆえに私たちは欲望を放つ。
これは私もあなたもかわりない、求めてやまない欲の根底は清浄なり。
あなたがその様であるならば私もその様な者そのもの、
これを知る時一切のものに嫌悪する理由がここに消える。
私たち人間が求めている不動なる絶対愛を求むには同じく一切を愛する事、
一切を愛するには一切は清浄で差別がないと気づく事、
至るには、一切の人の成す事象は清浄なる欲ゆえであると知り、
清浄なる欲から発露する誤った悪行すらも許すと云う事、(行わせてはならないが。)
嫌悪が消え去る時、全てを許す自己を見出す、
いかなる者も許した時、私たちは一切を愛する者と成る。
一切すべてを愛した時、私たちは奥底より真に求めていたもの、一切すべてから愛される、
どんな悪人であれ、一切すべてを愛する者となった時、一切すべてに愛されて罪は消えさる。





Copyright (C) 1996-2003 愛上王 All right reserved




今回、しばらくの間、当ブログのメインメニューのひとつをやむなく非公開に致しますが、
もちろん他のメニュー内のものだってパクられる危険性はあるわけです。

なので、当ブログの記事の焼き直しと思われるものを発見しました方はコメントにてお知らせをください。
ただし、もしパクり記事らしきものを他のサイトやブログでみつけられましても、ひとつしか挙げれない場合には当面の間は非公開コメントにする場合もあります。
(双方の記事の比較検証するという意味合いからしても、発見がしにくくなりかねない記事の非公開はよくないのは分かってはいるのですがね。)
ですが複数見つけた場合には堂々と名指しでコメントをお願いします。
サイト名とブログ主のハンドルネーム、問題の箇所のアドレス、どういった内容の箇所がそうと思われるのか、などなど。
もちろんこれはパクリ元と思われるものも明示をしてください。
もはやですね、こうでもしないと抑止策にならないんですよ。



今回、なぜ非公開にするにも関わらず、 【 より愛されるために 愛 】を挙げたのか、
その理由は、当ブログの様子をこれから日々静観してみてください。

私は意味のないことはしませんからね。
これはある方に対する警告なんです。
その方は今、これを読み、
実は実は、ドキドキされておられることと思います。

それと、ここでとても重要な記事を挙げておきます。
「スピ商売をする人引っかかる人の重大な危険性」
 http://firstdoor.jugem.jp/?eid=380


それとこれはお知らせで、話はまったく変わりますが、こんな私ですが、実はオススメしたいサイトやブログってあるんですよ、
この先、そんなブログをもし私が薦めたなら、
ぜひできるだけ速く、できれば全部を手元にダウンロードしてでも、そのサイトを隅々読まれてみることをおすすめします。


追伸
今回、実は 【 より愛されるために 愛 】以外にも載せたい原稿が他にもあったのですが、
あまりに長文になってしまうので割愛をしています。

【 金銭という生きる貯金 】
【 ひとやすみ 世界に溢れる愛という名の血液 】

他にもありますが、主だったものはこのあたりになります。
機会あれば公開にしますね。

 私の記事で何かしらよいものがあると思われる方、
どうぞよろしくお願いをします。

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世界に溢れる愛という名の血液 & 金銭という生きる貯金

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 世界に溢れる愛という名の血液 & 金銭という生きる貯金

 前回の記事では、長文になりすぎてしまうと判断し、割愛をしていました部分、
【 金銭という生きる貯金 】
【 ひとやすみ 世界に溢れる愛という名の血液 】
この2つの記事を挙げておきます。
ぜひ、前回記事の中で挙げてあります、【 より愛されるために 愛 】と、こちらの2つを繰り返し読まれてみてください。

今回の記事もしばらくしたらそのほとんどを一旦読めなくする予定です。


 【 金銭という生きる貯金 】
 前述しました寿命と同様に生涯の中で得られる金銭も、生まれたときに前世で培った奉仕の因果によってその量は決まってはいます。
ですがその定められた量に加算してゆくことは、因果による人々に同じだけの奉仕を積む事によって可能となります。
ここでは人間やあらゆる生き物、魂は、その存在を利他として働かせる全宇宙というひとつの有機体の中の1細胞のごときものと受け止めて頂ければよいと思います、
これらを理解する手助けとして少し前置きをせねばなりませんが、
愛とはこの二元論の相対の世界で表面上は分離している他者との同化を求めるものと云えます。
しかしこれでは簡単にまとめすぎていて説明が足りませんね、
ではこうしましょう、あなたは愛する人がいます、もし現在いないなら居たときを思い起こしてください、
あなたは愛する人の喜びも苦しみも分かち合いたいと強く強く欲求をしてはいませんでしたか?
あらゆる感情思想の中で、そして誰の中においても最高位である「愛」は、あなたにその愛する者との同化を強く促していたはずです。
その人が喜べばあなたも嬉しい、その人が悲しめばあなたも悲しい、
愛する人が事故にあって不自由になれば替わってあげたいとさえあなたは「愛ゆえに」想う。
この時、あなたも、私も、存在するすべての魂は利他としてその存在を働かせています。
この相対の世界において表面上、表象上は確かに分離した者同士であるので利他の形を形態としてはいますが、
あなたのその愛、その利他は同化したいと云うのが本質であることは理解頂けると思います。
同一化、それはこの相対の世界においては利他としてその働きを示そうとするもの。
愛する者と同一化したいという愛の表れは、私たちに私欲を起こさせないでその本来の存在の意義を発揮させうるものなのです。
それが利他として全宇宙の中において1細胞のごとく他の為に存在できる理由であり、また存在する意味でもあります。
そしてこれが肝心なのですが、それら利他、人々に愛を全うする時に私たちは放ったものを求めずとも同等同質のものを自然得られるし事実得ているのです。
これらを善性の因果と言います。

利他、これはすべてに対して益として利する事、これが各々1細胞の存在意義であり、
その存在の愛のしるしであり、存在そのものは本来愛なのです。

  書き終えて数日たった今、この部分を自分で読み返してみました、とても重要な事をさらりと書いてしまいましたが、
この部分は見える人と理解できない人に大きく別れると思います、
もし後者なら、
人は自分に一元の如く、下心なくと云えばいいでしょうか? 皆誰もが愛をもって接して欲しがっているのだと第一部に書きましたが
それを読み返してみて下さい、そして自分自身本当は人に何を求めているのか考えてみて下さい、
実際はここの部分に関しては言葉で言い表せきれるものでなくて自身がそのステージに自力で這い上がるしか確かめる手だてはないのです。
しかしそれでももし確かめたいと言われるならば、−−− (懐疑心、多いに結構です、確かめるにはまず疑問がなければ始まりません。)
類推推理で確認してもらうほかありません。
そのステージを常に維持している人たち、でもそれら私達の目で見て類推推理に当てはめるに相応しい人物となると、
もはやありがちな人間心で行動している者ではなくなっている人たちになってしまいますが。


 今お話しました事は第二部において詳細をしました因果を深く理解し、日常の中でそれら因果を様々な角度から正確に捉える習慣が
身に付かれた方にはもはや説明の必要もないものではありますが、
ここではこれらその全宇宙の中における各々が1細胞のごときもので、
その存在が愛という他のすべてに利する事にその本来の存在意義があることを人間の身体にたとえながら話を進めましょう。
 突飛なたとえになってしまいますが、人間そのものを一つの小さな小宇宙とここでは想像して下さい、
実際の話として人間は小さなミクロコスモスであって、この私達が住む宇宙となんら変わりはしないものなのですが。
さて、私達には目があり手があり足もあれば内蔵や血管もあります。 
これら各々の器官をそれぞれ星雲なり太陽系のような微細な部分宇宙と捉えて想像して下さい。
その部分宇宙の細部には星があり衛星があり、それらを支えるように有機体として様々な生き物も住んでいると。
その星がその固有の1細胞として機能するために地表には植物が生い茂り、
悪性の細菌を除去するための白血球に相当する天敵として過ごす生き物もその中で生かされていると。
すべてその人間の身体の中で存在する赤血球なり白血球や肉体の機関を構成する為に存在している微細な1細胞は、
人間の肉体を健全に支えるという他の細胞や器官、最終的には肉体そのものに益とする為に存在しています。

これは十分お分かり頂けると思います。
しかしもしもここでその1細胞がその存在意義を全うできずにいたとしたならばどうなるでしょうか。
本来あるべき他の細胞や部分的器官、果ては身体全体に対してその役務をはたす事ができない状態です。
これは人間の身体で云うならばある時はガン細胞かもしれません。 その存在が本来の肉体全体に益とする意義がなくなると、
私達人間の世界で云えば病院に行くなりしてその治療なり対処がおこなわれます。
最終的には死滅するなり肉体から除去をされるなりすることでしょう。
もっとも、その細胞なり部分的器官なりといったものを正常に本来の機能、
他の細胞や器官や肉体全体に対して有益とする本来の1細胞としての意義を取り戻させようと他の細胞群が自然治癒のような形で力を貸そうともするわけです。
これらはこの人間社会で云うならば過去幾多も現れた聖者と呼ばれる人々や
国家を良くしようと立ち上がった政治家や指導者のようなものとでも言えばよいでしょうか。
この宇宙というマクロコスモスと人間というミクロコスモスは規模が違うだけで機能的には全く同一なのです。
この各々の個としての1細胞とは、他の細胞や器官、いわば身体全体に向けて益とする機能を発する事がその存在意義であるということはここまで読み進めてこられて充分にご理解頂けたと思います、
しかしここで不満があるやもしれません、それは他に対する益として機能するからこそ生かされているのは理解はできるが自由がないではないかと。
それのみが存在の理由であるなら私達人間とはなんと退屈な存在ではなかろうかと。
これこそがこの私達の日常の悩みでしょうね、愛よらずに利己心を持って存在をしたいと。
しかし利己心の存在としてでなく、実は愛そのものであろうとするときに望むものは得られるのです。
他への益とする存在意義、自己そのものが愛として顕れている事そのものが状態として、そして境地としても最上であり、
他への益となる愛から遠く離れているとき、私達1細胞はその存在として本来の機能が発揮できずに自分を満たす血液にも恵まれず不幸と苦悩を身に背負う。
言い換えれば益とならず弊害とさえなるとき私達は愛から、または望む幸福から自分自身によって切り離し、
私達1細胞は問題を抱え苦しみ不幸となるのです。
 (解消法は後述します「不幸を治療する方法」を参照。)
1細胞という孤立した存在のまま己を利己心によって存在させたいという認識状態は、他より益を供給してもらうばかりを外に求める利己中心と言える状態で、
1細胞でありながらもその存在は実は各器官であり、果ては身体全体なのだと自身が認識してゆくときに、
1細胞のままであった時の小さなものに対するこだわりは消えてゆき、各々を部分的器官、ついには身体そのものと認識するようになるのです。
すると1細胞としての小さな自我意識から抜けてゆくので1細胞として迷いの中にあった時の不満状態、不幸や苦悩とはもはやこの時縁が切れているのです。
その1細胞が自身一粒という自我意識が薄れてゆき、己を拡大した各器官や身体全体と認識してゆくと、(これは人間が利他、愛に基づいて魂の進化を果たしてゆく姿です。)
その時の自身である各々の器官にとってはもはや欲する血液や健全に保とうとする機能も自身で発揮することもできるし、
他の大きな器官からの援助も1細胞として迷いの中にいたときよりもなんら問題なくスムーズに必要とするものを配給してもらえる。
こうしてミクロコスモスなる人体に置き換えて考えてゆくと、これらすべては仏教やヒンズー思想の中で現れた聖者の示すものと見事に一致をしています。
(注、 1細胞の意識状態からついには身体全体を自身と捉える事は仏教でいう解脱に相当すると考えてよいでしょう。
またヒンズーの聖者達が指す全宇宙との合一、ヒンズーの中で云うヨガ、それを行う者、
自己統制をしようとする者を指すヨギの最終地点ではないでしょうか。
ヨガとは「合一」と云う意味だそうです。 ここで指す合一は究極的にはすべてとの一体を指しますが、
過程においては個人間の合一、言い換えれば個人間における愛と受け止めて頂いて構いません。
そしてこれは大切なことなのですが、本書は宗教書ではありませんので全宇宙との合一やら
ブッディストの唱える解脱といった言葉を私が書き進める上での喩えなどで使ってはいますが、
それら宗教的な言葉に触れてもそれらにとらわれず、
私達の生活に役立つものは宗教という概念にこだわらずに
その目的とする愛と幸福のために採り入れていったら良いだけのことなのです。)

身体全体を自身と認識する最終過程こそは全宇宙を自身として捉えるという一元論の中で指す所の創造主、
他のすべてとの合一を指し示しています。 私達には本来誰一人と他人というものは存在しないのです。
 さて、話が長くなりましたが、話を宇宙などという大規模なものから今は小さな個人、1細胞へと話を戻しまして前置きを終わらせて頂きます。
「これら魂の存在意義を私たちの住む人間の世界にあてはめるならば、それらが社会上営む上で欠かせない労働という形をした奉仕となると言えます。」

「一元へ向かって」
愛するって
いったいなに?
同化すること
自分も他人もなくなること
主観も客観もその時 ない
これが一元
これが我は彼なり
痛みも苦しみも悲しみも喜びも
他人のすべてがひとつ残らず自分自身のもの
他人なんか本当は誰一人いやしない
人の生きる目的は人を愛すること
最後はすべてと同化すること
宇宙に溶け合うその最後まで

 前置きが長くなりましたが話を戻しまして進めてゆきましょう、
私はこれまで、愛がすべてを与えるとお話をしました、それはすべては愛によって与えられるからなのだと。
これらは利他としてその存在が働くと、相応のものが自然と因果として身に還るからだということは第二部でお話しした通りです。
利他としての存在を全うすることによって自身にも相応しいものが自然還る、これが人間社会においては社会を構築する助けとして、
その多くは労働という他に対する社会的奉仕の形態を我々の世界では形としてとっています。
人々の生活の向上と維持に努めるという労働、社会的奉仕はその量と質に応じてその人に何の狂いもなく正確に還ります、
これが前もって因果によって定まっていた金銭の量に加算ができるという事を示すものです。
つまり、前世以前より因果によって培ってきた生まれ持って定まっていたものに更にプラスしてゆくことができるのです。
たとえばある人が今までの労働、奉仕では金銭的に賄いきれないと思うのであればその仕事の質と量を変えることによって大きくすることも可能なのです。
これとは別に、特にそのようなことをせずとも満足のできる収入が十分にある人も存在します。
それらの人々は因果によって今生その果が身に還ってきているのです。
例えば倒産する心配のない公務員、特に官僚や、代々の資産家の家に生まれると云ったものは、
その人が持って生まれた個々の因果がそうやって顕れたといえるものなのです。
みずから培った因果の顕れであるからこそその人は金銭的に裕福であるわけです。
前世においてみずから為した他に対する奉仕がその生で還りきらなかった程大きいので今生においてもその残りによって
生まれた時から裕福なのです。
これは裏を返してみればこの今生においてもみずから他に奉仕を一層することによって身に還る事は十分に可能であることをも示唆しています。
さて、選ぶ職業に恵まれず金銭が思うように身に還らない人も世には沢山おられます、
こういった方はそうなるに相応の事をなしてきた疑いがあります、それは生きてゆく中で利己心から発する争いだったかもしれません。
例えば前世や今生において人々の収入の機会を取り上げることが可能な立場に居たかもしれませんし、
仮に商人だったとして、使用人に満足行く適正な賃金を払うことをためらっていたかもしれません、
また例えば、それらの因果を振りまいたその時代においてはカースト制度がその地方にあったやもしれませんし、
それを自己に都合よく人々に無償で労働を強いていたのやもしれません。
(過去各地に残る奴隷制度など。)
これらは自分自身で振りまいた相応の悪しき因果を清算し終えるまでは事実金銭に困る生を生きねばならなくなります。
貧困と縁を切れない人の多くはこれにあるのです。
しかしこれまでお話ししたように、身に振りまいた悪しき因果は清算することが可能です、
どれだけの時間、人生を費やすことになるかは個別の因果に拠るわけですから一概には言えませんが、清算することは確かに可能です、
それは金銭にまつわる因果であるなら、そのまま人々に労働をもって奉仕するという、身によって撒いたことの対極にあるものをためらう事なく懸命に行うという事。
(第二部の「動的な因果の清算」を参照。)
ここで読者の中には残念がる方もおられるやもしれません。 
地味にこつこつ因果を清算してゆくのではなくて、手っ取り早く今すぐにでも身が撒いた悪しき因果を清算する方法はないのかと。
それこそが地味ではありますが撒いた悪しき因果の相対な位置にある善き因果を積んでゆくことなのです。
もっとも、それら因果の償いとも見てとれる善き因果を積んでゆくことこそが既に成功を約束された幸せな状態と解釈できますし、
それらの中にあって因果を真に解釈してゆくようになるならば最低限生活できるだけの金銭が賄えるならば、
悪しき因果をみずから振りまいたときのように激しく求める心情はもはや消えていると云えるでしょう。
これは清算という過程の中でみずから撒いた悪しき因果が清浄となってゆくという事です。
そして金銭はあくまで身を養う上での単なる道具であると認識してゆくようになるでしょうし、
このような結果を招いた身を養う以上の贅沢を欲する心といったものを省みる機会としても悪しき因果は身に還っているのだと認識をするでしょう。
しかし別の捉え方はあります、それは得た金銭、収入を他の人々の益とする為に強く欲するというそれです、
得られる金銭をできるだけ他の人々に役立たせるよう使うならそれらは何倍にもなって還ってくるでしょう。
もっともそれらが今生生きてる中ですぐに還るか時間がかかるか、来世以降の備えとなるかはその人の個別の他の因果にもよるわけですが。




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 【 ひとやすみ 世界に溢れる愛という名の血液 】

 私はこの書を書き進めてゆきながら、人間の資質とか対人間における利己や利他といったステージは、その人の愛はもちろん、
成功や幸福にそのまま直結してるのだと理解しはじめた頃から人間という種そのもののステージに目がゆくようになりました。
人間という種そのものの全体的な精神ステージというと、
これはもはや愛や個人的な恋愛の域からは既に逸脱してしまっているように思われるかもしれません。
しかし逆説的にものをみるならばこれらの視点、人間という種そのもののステージの視点からみつめてゆくと、
これまで書き進めてきたものはこれら人間が到達してゆくべきステージに必要不可欠な、辿るべき道である気がしてなりません。
ここでは人間の精神性のステージと愛によってつかむ事のできる、この世界に溢れる血液、愛の具象化した顕れのひとつである金銭についてお話しします。

 まず初めは現人間の精神性のステージを理解する助けになるものを。
エジソンは昔、電流を使って人工的な明かりを作ろうとしました、これは私達の知る通りエジソンの努力は実を結び、電球として実現をしました。
しかし当時の人々の目からみればこれはもう狂気の沙汰だったかもしれません。
電気を応用すれば人工的な明かりになるだろうという発想は、実現されるまでは想像の範疇を越えないなんら根拠を示すものがない。
今でこそ我々は電球をみつめてその明かりのメカニズムそのものは理解できなくとも、
その明かりのまぶしさになんら疑問を抱かずに当然の事としてはいますが、
きっと実現されるそれまでは、人々の目からみれば理解を超えた途方もない事と思われた事でしょう。
 エジソンとグラハムベルが同時期に研究していた遠く離れた人と会話をする機械、
電話機もそうで、これも人々の目からみれば狂気の沙汰だったに違いありません。
現実は努力が実を結んでふたりとも完成し、特許出願で一歩早かったベルの方が電話発明者として後に名を残すことになる。
音や声を記録し、いつでもその音や声を再生する機械、蓄音機もそうです。
どれもすべて実現するまでは理解を超えた狂気の沙汰にしか人々の目には映らなかったことでしょう。
 これら数々の発明を成し遂げたエジソンがその晩年の最後に挑んでいた発明はなんと霊界電話であったといいます。
死者の発するバイブレーションと生きている人間の発する声、これらは皆同じ周波数の高域低域の違いなのだろうという発想の元に研究が進められていたそうです。
死者と会話をする装置、未だ実現されていないこの装置を作ろうとしていたエジソンははたして気がふれていたのでしょうか?
実際は晩年死が近づいていたエジソンが死後の世界に興味を持ち、これらに挑戦したのだろうと察しています。
しかしエジソンは霊界電話を完成させる前に他界してしまった。 (設計図が一部が残っているそうです。)
それは霊界電話を完成させる事は世にはまだ早いとしている高位の知性体の介入によりエジソンの生存中には日の目を見なかったのだろうと言われています。
これと似たような話に、エジソンよりも更に昔の人間が電球を発明しそうになった時も、
その人間は突然他界してしまったのだという話を以前ある書物によって読んだ覚えがあります。
高位の知性体の介入により世に相応しい発明となるまでは実現させられないのだと云うことなのかもしれません。

 エジソンの発想は正しかったのかもしれません、死者と生きている人間の発する声は周波数の異なるだけの同じものなのだという発想。
これを元に研究が進み、もしも完成していたとしたならどうなっていたでしょう?
霊界電話が普及していたとしたならば。
答えは明白です、死後の世界に憧れたり、先に死んだ恋人を追いかけるように自殺する者が激増していたに違いありません。
現人間の精神性の発達度合いからみれば害の方が大きいのです。
無論機械そのものが悪なのではなく、我々の心が追いつけずにそのような要素を生み出してしまうわけですが。
このあたりの現人間の精神性の発達レベルが、私達に霊界電話の存在がまだ時期として早すぎると考えられるゆえんなのでしょう。

 これはある国でおきた話になりますが、現実にあった話として昔、オーソンウェルズによるラジオ番組で火星より宇宙人が来襲してきたという内容のものが放送されたことがありました。
もちろん単なるドラマにすぎず、ラジオの聴者のそのほとんどは作り話であることを理解していたものと考えられるのですが、
一部の人々はそれを作り話と考えずに本当に地球に火星人がやってきて今まさに侵略が始まったのだと気が動転する者が続出したという話があります。
問題はその後の事でした、これら混乱を招いたのはラジオという機械が悪だからなのだと短絡し、
単なる電波受信機でしかないラジオを撲滅せんと至るところにあるラジオというラジオを叩き壊す運動が起きたのです。
これはある国で実際に起きた話であり、ラジオ全盛の頃のできごとらしいですが、ラジオドラマであるという事を忘れ、
自身の短絡的思考による早とちりが招いた騒動であるとは認めず、この、ラジオそのものを悪であると転嫁した人々、どうでしょう?
この現代で同じようにオーソンウェルズのドラマ並に迫真に満ちたものがラジオで放送されたとして、
同じように混乱を招いて大騒ぎするような精神的発達段階の者がはたして居るでしょうか?
まして騒ぎの後にラジオ撲滅運動を興し、世界中のラジオをバットでたたき壊す行動にでる者が居るでしょうか?
答えは否でしょう。
現人間はこの騒動の時より幾らか発達しました。
様々な時代には人々という種そのものにも発達の段階があるのです。

 種にはその時代に添った精神性の高低があるということをおおよそお分かり頂いたと思います、
それでは肝心の金銭について話を進めてゆきましょう、金銭の存在する意義、存在理由も含めて。

 金銭とは争いなく平和に欲するものを得させる手段です。
そして金銭そのものは愛の低次元における具象化とも言えます。
それは、与えるなら自然それは得られるという愛そのものの因果の低次元における顕れ、具象化であり、
高次である本来の、与えそして得られると云う遙か高き純粋なる愛という精神ステージを擬似的に我々人間に学ばせる手段ともなっているのです。
すると金銭を労働によって得ずに奪うという、金銭のルールから外れた悪事は金銭というものを概念として認められる種以前の段階の行為となります。


 金銭という概念がその種に与えられるそれまでは、得るためには殺し合い奪い合うというステージにあります。
生き物の進化に合わせてそれらすべては境遇としてみずからが与えているからと言えるでしょう。
大昔の恐竜は得るため食べるために他を殺して奪っていた、それは力による生存。
恐竜の時代が過ぎ去ったあとの原始人もそうでした、争いは常であった。
 これはその種の精神性の発達度合いに照らし合わせると、金銭という概念が派生する以前の種は、
得るために奪う、殺し合うという「利己中心」が自然な概念であり、それを疑う事すら知らない。
食べる物が何もないなら生んだ母であろうが同じく生まれた兄弟であろうが共食いをしていた。 
恐竜の時代において生きる事は奪う事だった。
この境遇にみずから身を置いていた種の発達段階においては、そのみずからが求めた掟に相応しく自分自身もその掟に支配されます。
自分自身も更に獰猛で、得るために手段を選ばぬ者の食料となるのです。
これは、得るための因果のスタイルは、「得るために 奪い、奪われる」という未開なスタイルと言えましょう。
後に人間が生まれ、それまでの概念である生きるために奪い合うという概念は未だ引きずりつつも、
新たに生まれた種は得るために争いを起こさずに得る方法を学びます。
初期のその様子は交換という形です。 そのスタイルは利己利他4分類に当てはめるならば「利己利他混在」になります。
「得るために 与え、そして得られる」 という、得るための因果のスタイルが平和的なものに徐々に変化をしてゆく。
これが金銭の始まりだ。
現人間は大まかに云えば今この段階にいます。
得るためには奪い殺し合うという段階であった「利己中心」から見つめるならば到底理解不能なこの「利己利他混在」という段階に生きる我々も、
更にその奥で待っているであろう「利他」の段階は理解に苦しむものかもしれません。
現人間のこの「利己利他混在」と言えるステージは、厳密に云うならば、「与え、そして自然得られる」ではなくて、
「得るために与えよ」になります。
得るためという根本動機がここにあるわけです。
この現人間の常である利己心を内在した「利己利他混在」のステージの先には、「利他」が土台となり恒常になる生活が待っています。
いわば種の精神性進化過程のこの先の途上にあると想定されるステージ。
この「利他」が我々人間にとってなんの疑いもなく常であると認識するようになる頃には、
「利己利他混在期」であった時のその象徴である「金銭」は人々の概念から消えるのです。
それはお金が無くなるということ。
得るために奪うという「利己中心」から離れ、
得るためにはまず与えるという「利己利他混在」からも離れ、
「利他」による、すべてにただ与え尽くすというステージでは、過去の遺物である「金銭」はなくなるのです。
「利他」であるからすべてはただ与え合い、与え合うゆえに求むという必要がなくなる。 すると求む為の道具は要らなくなります。
ただ与え合うというステージ。
さて、この「利他」というステージを現実化した国々も民族も今のところ地球上のどこにも見あたりません、
するとこれは理想論であって実現はされやしないものでしょうか?
「利己中心」が常であった奪いあい殺しあうステージに居た者が見つめたステージである「得るために与えよ」という「利己利他混在期」のように
鼻で笑ってしまうおかしな事でしょうか?
否、人間は今急速に進化している時期にあり、可能性はあると言えます。
千年前や二千年前は現代と比べるならば種としての進化は緩慢であったように思われますが、
現人間は精神性の発達を助ける刺激に恵まれているのです。
地上においてあらゆる種の中で、今の人間ほど急速に進化している種は他に見あたらないのです。
さて、「利他」が恒常となる種の段階は本当にやってくるでしょうか?
やってきます、それは遙か先かもしれない、しかしこの世界はいずれ必ずやってくる、しかしそれには条件があるんです。
人間はこぶし固めて人に向かえば、
相手は地面に落ちてる石を拾って構える生き物ですね。
何しろ石ころの方がこぶしよりも堅く痛い、利点に目を向けるからです。
するとさらに石に対抗するために棒を手にし、
そしてその棒に対抗するためにどんどん武器は強くなっていく。
棒なら剣、剣なら銃、ライフル、大砲、戦車、爆弾、飛行機だ戦艦だってなっていき、ついには終着点に行き着きます。
その終着点は自分すらも滅ぼしてしまう兵器に手をだしてしまうと言う事。
最後は相手と共に自滅してしまう兵器、「核」にまで手をだす。
行き着くまで果てがない。
これが人間、悲しいけど人間、
この予測される結果を見越して争いをやめるだけの知恵が本来人間にはあるんです。
目の前ばかりでなく先も見て平和を選ぶ事が人間はできるんです。
しかし人間は愚かだからこそこれらを続けてしまう。
続けていった場合はその答えを自分たち自身で「果として実際に味あわねば省みる事ができません。」
この結果を見通して未然に防いだならもっとも望むべき条件を満たせます。
もし人間が愚かなままであったとしても、こうしてみずから体験したときに他の種とは違って知恵があるからここで初めて省みる事もできるのです。
終着点が起きた時にようやく自分たちの愚かさを悔いて条件を満たすようになります。
争いがばからしいものである事に気づいてようやくやめるようになるんですね。 この時に。 
そして人々はいずれにしてもどちらの結果で辿ろうとも誰もが助け合うという種になります。
この時人間という種そのもののステージが揚がってゆくのです。
そしてこれらがその種の恒常的なステージになった時には金銭の役目はついに終わります。
金銭は種の進化のステージの中において一種の知恵であり擬似的な学習を我々種に学ばせていたものなのだとこの時悟るのです。

 金銭という概念を我々人間に与えたのは、言うなれば争いから抜け出たいと我々が進化の階梯の中で自分自身に求めたという、
自身の精神ステージの進化のたまものだったのです。
何をしてでも奪うというステージである種の段階においては金銭は存在しません。
猫に金銭は存在しませんし、犬や猿にも金銭は存在していない。
どの種の中においてもその種にふさわしい境遇や知恵、そのステージに相応しい秩序を与えているのは実は我々「魂」自身なんです。
私の幾多とあった永い流浪、転生の最中では、猿であった時は求める物を平和裏に解決する種の知恵、進歩の精神性に直結しているその「金銭」を知らなかったのだ。

金銭という概念、すなわち「得るために相応のものを与えよ」というステージそのものは、
与えあい愛し合えという「利他」のステージに到達するための必要不可欠な通過点なのです。


これらは地上に生きる種である「人間」そのものがステージとして到達するにはまだ時間がかかるかもしれません、
しかし個人においては容易に実現をする事が実は種全体そのものよりも簡単なのです。
「利他の概念に基づいて精神性を向上させてそのような生涯を送った者は、その精神性に相応しい世界に必ず転生をします。」
地上における種の進化が成されるまで待つ必要はなく、すみやかに相応しい地にその魂は住む。
もちろんこれらは輪廻思想が根本にあるものなので、それ以前の唯物観のみで生きるステージである「利己中心」が常な場合は承け入れられる事もないと思いますが。

■ 金銭やあらゆる物質、人間生活に欠かせない豊かさといったもの、
私達が本来心の奥底で求めている真の幸福である不動なる絶対愛や、日常的な生活における様々な利益は、
実は私達一人ひとりの為にしっかりと用意されていて、この世界にそれはまるで血液のように溢れているものです。
それら人が望む豊かさ、精神、物質問わず、人に幸福を与えるものの正体は、
本当はその人の愛の現実世界に具象化した顕れであり、
人がこれら求める豊かさと縁遠くなってしまうのは人々が利己に傾いてゆき、
それらを自身の手によって自ら切り離してしまっているからなのです。
 もし私達が人々に愛や金銭、善きものを外側である人々に向けて放つなら、
それは益々自分の許に流れてやってきて枯れてしまうことはありません。
血液とは本来そういうものなのです、一見内から外に向けて放ち、枯れつきてしまいそうに見えても、
流れは自分を通過点として通るように益々自分にも上流から流れてくるのです。
たとえば血管のある場所で流れをやめてしまい詰まったとしましょうか、流れはそこでとまり、人々には流れていきません、
当然自分を満たす新たな血液も自分の許にはやってこないのです、愛という血液の流れを自分で止めてしまっているのですから。
■ もし人を愛し、人々を愛し、そうやって愛する人を手に入れ、幸福となってゆくのなら、
あなたのその愛の顕れは現実的な金銭としても具象化してゆきます。
愛は今お話したようにこの世界に溢れ流れる血液のようなものです、
愛を人々に、外側に流れてゆくように、みずからが得た愛の具象した金銭も惜しみなく人々に還元するよう与えてください、
人々に向けて放つなら益々自分の許に流れてやってきます。





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